白山登山記

July 17 [Sun], 2016, 22:37



ねぇ、ぼくらのいる世界は なんて美しいんだろうね。
それを思い出すために、人は時々雲の上まで登ろうとするのかもしれないね。



白山に登ってきました。
すごい旅だった。

金沢に着いたら雨が降ってくるし、一緒に行くはずだった人はどんどん減っていくし、一時はどうなることかと思ったけど、すべては辻褄が合うように導かれている。

さすがに当日雨じゃ登り辛いよねってことで、金沢に着いて早々、白山比盗_社までご挨拶に行った。
北陸鎮護の大社 白山本宮 加賀一ノ宮。三千以上ある白山神社の総本宮。
何年か前に金沢にイベントに呼ばれて来たことがあって、その時以来。
菊理媛尊(ククリヒメノミコト)を祭るこの神社は、なにか特別なシンパシーがあって、すごく居心地がよくて好きな場所。

神社に行って、久しぶりにその前に立って、ククリ姫とお話した。
あんまり外からは分からないようにしてたけど、心は大好きーってはしゃぐ子供みたいになっていた。
春風みたいに鮮やかで華やかな空気で迎えてもらえて、あぁこれはウェルカムなんだな、大丈夫だなって確信する。
ひとしきり心の抱擁を交わして、よろしくおねがいしますねって挨拶したら
「山頂で待ってます」って一言返ってきて、面会終わり みたいな空気になった。
山頂って何のこと?とは思ったけど、とりあえず登って来いっていうことは分かった。

そのままゲストハウスに向かい、せっかくなので金沢の町を少し歩き、夜にヒーラーの子の家に人が集まるというので会いに行く。
ここ多分、あとでつながるご縁の伏線だなって分かるようになってきた。
その人とはその時あまり話せなかったけど、きっといずれ分かることだから今はそのまま置いておくことにして帰る。

ゲストハウスに戻っていざ寝るぞって段になって、いよいよドバァーっと雨がさらに降ってきた。
これもう無理なんじゃないの?っていうくらい降ってきて、当初10人以上いた参加予定者が結局当日朝には5人になっていた。

根がものぐさなので実際自分も心折れかける。
でもまぁいい、こういうのは慣れてる。
ウェルカムな空気にそぐわないこの雨は、選別みたいなものでしょう?
本気で来たい意思のある者だけが来いってことでしょう?
そのやり方はよく知ってる。
本当に行っちゃいけない時は、もっと分かりやすくストップしてくれる。
だから本当に行くべき人だけが導かれる。

来いって言われたからね。きっとちゃんとサポートしてくれるよね。頼むよ。
祈るような気持ちで、実際祈りながら山のふもとまで行き、入り口に着いた。

登山口の鳥居を見つめても、止めろっていう感じのサインは来なかったので、行けるところまで行くつもりで踏み出す。

あとはもう粛々と、聖者の行進のように、ただ霧と雨の山を登る。登る。ひたすら登る。
前日に千円で買った雨合羽はもうほとんど役に立たないから、上はTシャツだけ。
同じく500円で買った、濡れてもすぐ乾く化繊のTシャツはかなり使えた。

こんなに何時間も雨を浴び続けたのは初めてなんじゃないかってくらい浴びて、途中から濡れずに行くのは諦めてサレンダーしたら、いろいろ軽やかになった。あぁ、禊ぎだったんだなこれはと悟った。

頂上が近づくに連れて雨が小降りになり、高山限界を超えて高い木が見当たらなくなった辺りからとても快適になる。
ようやく宿泊予定の山小屋が見えて、ついに辿り着いた。翌朝はそこから出て頂上の日の出を目指す。

夕飯を17時に食べ、しばらくすると眠くなる。
翌朝午前3時に起床して出立予定なので、一緒に来た仲間はみんな先に寝てた。
自分はなんとなくもったいなくて起きていたら、19時前くらいに空が急に晴れだした。

外に飛び出したら、雲の覆われていた白山の頂上が見えた!
振り返ると、圧倒的な雲海の上に、信じられないくらい美しい金色の空が広がっていた。
これが地上の景色なんだろうか。それは圧倒的で、どうしていいか分からないくらい心の奥にまっすぐ入りこんできた。

空の真ん中へと続く、この本当に深く青いグラデーションは、きっと宇宙の真ん中までつながっているのだろう。
眼下にどこまでも広がる雲海を見渡すように、一つだけそびえるこの山は、なんだか本当に天上の世界を想起させた。

我に返って、すでに寝ていた仲間たちを起こし、連れて来る。
これを分かち合うために、ぼくらは登ってきたのだ。

誰もがそこに立ち、この世界を眺めていた。
言葉はとても少なかった。

世界はとても大きくて、僕はとても小さく、そしてその小ささになぜかとても安心した。
細胞が震えて、この透明な空と同じ透明な空気が自分の内側を満たしていた。
外と内の密度がつながり、そのとき多分、僕は宇宙と同じ静けさを見ていた。
静けさは完全な調和とともに意識を満たして、幸福とか愛とか、そう呼ばれている純粋な何かが確かにそこにはあった。
それはきっと、こんなにも透明で静かなものなのだと思う。






寒さで心の集中が切れるまで、ぼくらはそこにいた。
山小屋の部屋には電灯のようなものはほとんどないので、その後は出来るだけ早く寝る。

不意に夜中に目が覚めた。
まだ2時だった。起床までまだ少し時間があったが、少し外に出たくなって出る。

誰も見てはいなかったのに、圧倒的な夕暮れと同じように、星の空が広がっていた。
透き通るように静かで冷たくて、降るような、鳴る音の聞こえてきそうな銀河。
抱えきれずに時々星がこぼれて流れていた。
プレアデスの淡い輝きを見ていたら、なぜか心が安らいだ。

部屋に戻ってもまだ30分はあったので、寝ないで瞑想することにする。
前日無理をして登ってきたので、偏頭痛があったのだがまだ治っていなかった。
このままだと今日の行程はもたないので、痛みと身体のバランスに対してただ瞑想していた。
心が静かだったので、自分の体の中で、何がどうなってなぜ痛みになっているかがよく見えた。
一つ一つの固まった筋肉や組織に意識を向けて、それが解かれていくのを見ていた。
しばらくすると、ほとんど痛みが抜けている。
偏頭痛が出ると歩くのもしんどく死活問題だったので、期待以上の効果に感謝した。

ヒーリングの質は瞑想の深さに従う。
体とその叡智が必要なことを行うのを、ただ逆らわずにあるがまま寄り添う。
多分純粋な交流に必要なのはそれだけだ。
内に対しても、外に対しても、僕等はただ、そうであればいいのだと思う。

人々が起き出したので、日の出を目指し、山頂までの最後の道を登る。
空気が薄いからか、前半の500メートルがとてもきつかった。
しかし、山頂が見えてからの、後半の500メートルはあきれるほど早かった。
人間の意志と能力との見えざる力関係の不思議。
何かの加護でもあったかのようにとても軽やかに感じた。

そして辿り着いた。
ここが山頂。

そして初めて理解した。
白山神社の奥の宮は本当にここにあったのだ。
てっきり山小屋から登る入り口の横にあった立派な社がそれだと思っていた。

「山頂で待ってます」

そういうことか。
石垣に囲まれて風を避けるように、小さなお社が建っていた。

ようやく来たよ。
なんとなく明るく温かい風が迎えてくれたような気がした。

朝日を臨む方角に、風を遮る大きな岩の下、ちょうどよく窪んだ岩があったので、そこで座って朝日を待った。
一緒に登ったソウルブラザーのギョカンは、チベットのシンギングボウルを取り出し、隣で静かに奏で始めた。





その横で僕は、この大地、山の下にポータルがあるというシャンバラの人々や、ここまで励ましてくれた菊理媛のことを思った。
ククリヒメは日本書紀に一度だけ出て来るとても不思議な神様。
イザナギとイザナミが黄泉の国まで行って喧嘩したときに出て来て、それを諌めて仲裁した人。
天の神も地の神も、人も世界も、ほとんどその後に生まれて来る。
彼女がいなかったら世界は混沌としたまま、今の様にはなってなかったかもしれないというとても大事な人。
統合と和合の神様。

朝日を待ちながらククリヒメの意識層につながってみた。
彼女のそれは、日本神界のそれを大きく超えているように感じた。
もっと大きくて、ひょっとしたらガイア意識よりも大きな領域。銀河磁界意識とか、すごく大きく根源的な智性。
こういう宇宙的な意識はとても馴染み深い。

言葉を超えた感覚的な対話だった。
菩薩のような、この世界のすべてを慈しむ祈りのような意識を感じていた。
朝日を待ちながら、あぁそうか、お日様みたいだなって思った。
この世界は、生きとし生けるすべてのものは、とても大きな愛と慈しみに常に包まれている。
僕等の意識を超えた枠組みの中で、世界を形作るあらゆる存在達が、本当に深い慈しみと愛を注いで世界に寄り添っている。
僕等はその一部としてここにある。
僕等はその一部だから、僕等の中にもその中心を通して一つにつながる宇宙がある。
クラインの壺のように、それらは内と外ではなく、内も外も一つのものだ。
世界が、ククリヒメが僕に示したのは、あなたもまたそのようでありなさいということだった。
純粋な密度を保ちながら、内も外も分けることなく、ただ世界を己の中に持ち、己を世界の中に開いて居続けなさいということだった。

それは、世界を切り分けずに、己をもって一つに統合する(ククル)こと。
多分愛は、その純粋な在り方そのもののこと。





夜が明けた。
静かで厳かな夜明け。

世界は本当にきれいだった。
少しだけ泣いた。

僕の中で何かがククられたのだろうか。
それを知るのは、多分もう少し後のこと。
でも外に何かを求めて、時々迷子になっていた小さな子は、自分のいていい場所、いるべき場所を見つけられたのかもしれない。
今日受け取った静かな心がいつもここにあるのなら、きっとそれを見失わずにいられる。


ギョカンが言っていた。
『あんな死ぬような思いをして丸一日かけて山を登って、ハイライトはたった40分の夜明けだった』
「あなたにとってこの大変だった一日は、それに見合う価値があったかい?」
『あれを見るためだったら、僕は三日山を登り続けたって構わない』

旅の理由はそれぞれ。
でも何か同じものを同じ時に分かち合うなら、きっとそこに意味はある。


しかし本当に辛いのはこの朝日を見た帰り、下りの山道だったのだけど。
僕等の膝と腿は、その後のハードな山道の下りで、もうほとんどギリギリのプルプルになるまで追い込まれた。
復路は往路と違う、景観はよいけどハードな方の道だったので、本当にこれが行きの道でなくて良かったと心底思った。
初日の雨の中、あの道だったら心折れて頂上までは辿り着けなかったと確信できる。
だからそれもまた計らいだったのかもしれないけれど。


余談だけど、今日はもうどうにも足が動かず、横向きに一段ずつしか階段を降りれなくなっている。
よくできたもので、今朝の夜行バスで家に戻ってきたところに、ものすごく久しぶりの友人から連絡があった。
普段は遠くの島に住んでいるのだけど、ちょうど今日近くに泊まっているので会えないかと。
ちょっと困った状況になっているようだったので、会いに行ってひとしきり話を聞いて、私もそれが本業なので相応しいアドバイスと方向性を示したら、とても喜んでもらえた。
そしたらお礼にしっかりマッサージをしてくれることになって、今日自分が一番欲しいものだったのでありがたく受け取らせて頂いた。ほんと助かった。
神様ってアフターケアまでほんと万全。

さて、これからまたしっかり働かせていただきます。
かみさま、どうか私の心と御心が、透明な同じもので満ちたあの領域の中で、共鳴し続けることが出来ますように。
そしてそれを分かち合うことが出来ますように。


ここまで読んでくれてありがとう。









 

霊感ってなんだろう

March 30 [Wed], 2016, 3:03


先日「りゅーさんて霊感ありますか?」って訊かれてなんだかとても新鮮だった。

霊感があるってどういうことだろうね。
そういう問い掛けに対して、いかに分かりやすく深く面白く答えられるかがプロフェッショナルの本領であろうと身を正す。
12年以上スピリチュアルカウンセラーみたいなことをやっているけど、そういう素朴な問いかけみたいなものに、真面目にちゃんと答えようとする大人でありたいなと思う。

なので答え忘れてしまう前に書いておこう。
霊感があるってどういうことだろうって問いは、今の自分だったらこう答えるかなぁ。



たとえばカエルって生き物がいて、水中と水の上(空気中)とを同時に見ることのできる目を持っているとする。
で、それらは本来位相の違う、ステージの違う世界なのだけど、両生類っていうのはその両方にまたがって存在している生き物。
本来交じり合わない世界の境界が水面で、カエルはそのどっちもを行き来することができる。
そしてカエルはどちらの世界も存在していることに疑いがなく、そこに適応している一つの個性。
一方で魚や蝶は、もう一方の世界が存在していることに、カエルほど認識を広く持っていない。

水中と空気中っていうのは同じ物理的な世界の中での境界なのだけど、別の縮尺で見るとそういう境界線は他にもたくさんある。
たとえば微生物の世界と人間の世界は、人間の感覚と認識の中では交じり合っていないけれど、実際には認識している位相(レイヤー)が違うだけで、とても深く交じり合っているし同じ世界に同居している。

だから人間の意識できる世界というのは焦点を当てているレイヤー(層)がある。
レイヤーっていうのは、たとえば一枚の絵の背景と人物を別々に描いて、あとで二枚の絵を重ねると一つの統合した絵になるっていうあれ。一枚一枚がその焦点を当てている層(レイヤー)になっていて別れている。
で、僕たちは知らず知らずのうちに、認識できるレイヤーをできるだけ細かく分けて、自分が見たいもの、信じたいものだけを注目するように、訓練させられてきた。
だから知覚していても認識できないものというのはたくさんある。
子供はまだレイヤーがそれほど分かれていないから、感じたものをそのまま見ることが出来る場合が多い。

霊感があるっていうのは、認識しているレイヤー間の区別が少ないか、あるいは意識してフォーカスできるレイヤーの数が多いということ。
それらの可能性に対して、できるだけクリアにありのまま見ようとしているということ。
そしてよくフォーカスすることの多い周波数帯は、ピントを合わせやすくなっている。
使いこんでいる道具は使いやすい。認識も同じ。

だから人が、自分の扱える最大幅の知覚力を、なんの制約や制限もかけずに、身体のスペックを行使したら多分今とは全く違う世界が見えている。
そういう意味では霊感というのは認識できるレイヤーの1チャンネルにすぎない。
しかしそれがどういうことなのか、体験から理解に落とし込む過程で、ものすごく大きく情報が失われ、かつ歪められる。だから実際には私達は、ありのままの世界など殆ど知ることはできない。
それに近い世界を感じられるとしたら多分、左脳の機能が失われた状態の人か、薬物によってものの意味を認識しようとする機能を、著しく制限されている場合とかになると思う。

だからありのままの感覚を、ありのまま否定しないというのは一種の霊感で才能。
インスピレーション(霊が入る)ってそういうこと。
さらに言えば、霊っていうのは空間そのものに遍く偏在する意識のレイヤー。
個別化された霊魂っていうのも確かにあるのだけれど、その根っこまで辿れば多分全部一つのものの別の形だと思う。

こういう、霊感があるとかないとかみたいな話題だと、多分知りたいのは実際にそれを視覚的に認識することができるかというようなところかと思う。
これは認識の得手不得手は確かにある。”視える”というのは視覚優位の人の場合の情報処理パターンで、受け取った情報(エネルギー)を視覚的ヴィジョン的に処理、再構築した場合の認識の仕方だから。
僕の知り合いは、霊的におかしな場や存在を感じるときは”臭い”と言っていた。
あと僕の場合は霊的な位相でのコンタクトを受けたときには、耳鳴りがする。
言葉として情報を受け取る場合も、基本的にはエネルギーを言語的に再構築して翻訳しているということ。

また見えているという場合も、僕の場合は目で見ているのと同じように見えているわけではない。
目で見ている画面に、もう一つの、強いて言うなら霊的視野みたいなレイヤーを重ねて見ている感じ。
この視野は多分第三の眼ってやつで、身体の外側の霊魂のフィールド自体の持っている知覚じゃないかな。
だから目を瞑っていても、ある程度感じられるし、遠隔視やサイコメトリや前世やオーラを視たりするときも、多分同じ所を使っている。

だから使おうと認識すれば、機能的には誰でも持っている。
一般的に普段使ったことがないと思っているから、使い方がよく分からないってことだと思う。

また一般に怖がられている幽霊みたいなものというのは、実際には魂(直霊)そのものではなく、魂魄(こんぱく)でいうところの魄(はく)の部分で、魂の抜け殻みたいな、残された部分。
生命の本質の残滓みたいなところだと思うから、ぶっちゃけ物理的な焦点(肉体)を持って存在している生命体にはそれほど影響はない。
残り香みたいなものだとおもう。いずれ消えていくから恐れなくてもいいと個人的には思ってる。
いたずらに恐れるから、恐れなくてはならないような現実体験の創造に力を与え、それに巻き込まれていく。

ただものすごく臭い残り香は、その中に入ったら確かに不快な影響を受けることはある。
そういうものは身体感覚にしたがって、なんとなく嫌な感じを避けていれば避けられる。
だから頭でっかちな認識に頼るのじゃなくて、体の感じるなんとなくの好き嫌いに従って生きればいい。

霊感ていうのは、そういうものに身をゆだねて、殉じることも厭わず、受け入れて生きている在り方みたいなものだ。
人より世界を分けて捉えようとする境界の数が少ないか、人よりも多くの認識を受け入れるための棚の数が多いかだけだから、本当にただの個性の形だと思う。

付け加えるのならば霊感て、見ようとしなければそこにあったと気が付くような、そんな種類の知覚の仕方のことじゃないかな。
体の疲れや考え事ばかりに囚われていたら、自分を取り巻く竹林に降り注ぐ蝉しぐれが聞こえなくなっていたとか。
海を見ていたら、気が付くと波の音が聞こえなくなっていたみたいな、マインド優位になっていると体験し損ねる現実の別の位相。

自分の思い込みと囚われに沿って展開していく、マインドストーリーを手放したら、もっと世界のありのままの形を体験できるようになるのだと思う。
マインドに流れている思考っていうのは、スクリーンの中に流れている映画みたいなもので、しかも私達はそれぞれ見たいような視点から、その話に感情移入して見ている。
だから本当にここで、生命を持って体験している現実を、実際にはほとんど見過ごしているのではないかな。
マインドの映画よりも、面白いライブ(生)を見に来たのを思い出せたらいい。

そうしたら非日常と日常は逆転する。
それがスピリット(霊)として生きるということで、それが僕らの元々の意図の形のはずなのだから。



とりとめなく書いてみたけど、今日はこんなところかな。
問に答えると自分でもいい訓練になるので、何かあればご質問等お待ちしています。
それではまた。









 

春分点のギフト

March 20 [Sun], 2016, 0:00



2016年の春分点です。
宇宙的に一年の始まりの場所。

僕たちの過ごしている時間とは、宇宙の空間的な場所のことです。
地球が太陽との関係でその位置に来た時、また廻りの始まりが完了します。
それらは太陽に対して地球の描く螺旋の基点で、その太陽はまた銀河中心に、銀河は銀河団中心に対して螺旋を描き、一時たりとも止まっていることはありません。
私達は、宇宙の中を、決して繰り返すことのない新しい場所をいつも旅し続けているのです。

私達の地球が太陽中心からの光を、もっとも均衡を持って受け取る場所、それが春分点。
太陽の恵みを受けて生かされている、地球の生きとし生けるすべてのものが、バランスの起点としてデザインされている場所に、今日私達は立っています。

今年は何か厳かな気持ちでこの通過点を迎えてみようと思い、地球の生命のもっとも親しい仲間であるお花達とともに、祈りと祝福を分かち合ってみようと思いました。
これは地球の今のエネルギーと、植物たちの声とともに、それをアレンジメント(花束)にしたものです。
この次の廻りの輪の中で、地球に注がれているエネルギーと、それの導く方向性はなにか。
彼等から受け取ってみたいと思います。

この写真からは、植物と地球からのエッセンスのエネルギーが、これを持つ人に流れていくようにしておきました。
彼等の想いやエールが、皆さまの魂に寄り添う、ギフトとして届きますように。
これらのたくさんの祈りの幾きれかが、かつて宮沢賢治がそう呼んだような”あなたの透き通った本当の食べ物”になることを、どうか心から願います。(注文の多い料理店 序文より)

待ち受けにしたり、シェアしたり、どうぞご自由にお使いください。
受け取ってくださってありがとうございます。




春分のメッセージ

「今、大切なことは、”信頼する 育む 創造する” ということです。
新しいめぐりの時が明けました。また光は強く輝き始めるでしょう。

私たちは、ここにないものに意識を向けてはいけません。
どんなときも生命は今を生きています。
あなたの中に、今あるものだけが、あなたの生を創りだします。

種子は自分の中に、何が眠っているのかを知りません。
新しいめぐり、新しい季節の中で、宇宙の絶え間ない恵みを信頼し、
生命は自らを育み、創造していくだけです。

落としてきた葉を嘆くのではなく、生まれてくる芽を慈しんでください。
目を向けるならば、あなたはすでに十分に受け取っています。

陽の光は遍く注がれて、大地と命を温め続けています。
信頼して天を仰ぐとき、空はあなたの声を聞いています。
どんなときも、あなたはいつも無限の可能性に満ちた空間にいるのです。

私たちの間に境界はなく、そこに本質的分離はありません。
それぞれの命の形を、それぞれのやり方でただ表現しているだけです。

私たちを生かしめている力は、同じ源から来て、同じ源へと辿ります。
ただ咲くときに咲き、還るときに還ることを受け入れるとき、
あなたの握りしめていた手は、怖れを手放すことができるでしょう。
それはあなたの種子の殻を軟らかく緩め、あなたの発芽へと誘うでしょう。

光は満ちました。変わるべきものは、もうあなたの後ろです。
たとえそこが何も見えない光の中であっても、あなたの足を進ませましょう。

自由に創造をするとき、そこには何も定められたものはありません。
あなたの生命の形を決めるのは、あなた自身です。

ただ自分のあるがままに咲くとき、あなたのその在り方が、愛そのものなのです。

何かをしようとするのでもなく、何かであろうとするのでもなく。
ただ在るということ。それが自然のタイミングであなたを咲かせるでしょう。

あなたの種子が伸ばしていく根は、あなたの暗闇に根差しています。
でもその暗闇の奥に、源の光の入り口はあります。
どうか本当の声を受け入れてください。

源の光は、あなたを育む陽の光となるために、あなたの中心に与えられた光なのです」





〜・〜・〜・〜・〜・〜





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覚醒

February 09 [Tue], 2016, 15:16




うぉぉ。すごい! 分かっちゃった。
なんてことだ、うまく言葉に出来ない。

あぁ、どうしよう。
僕は今まで、世界がそこに「ある」って本当には知らなかったんだ。

自分の「内側」だと思っている場所のスクリーンに、「世界」だと思っている「外側」の何かを映して、それを「経験」や「認識」って呼んでいただけなんだ。

「内側」なんて最初からないんだ!! だから「外側」もない。
あぁ、そうか。だから「直接体験」ってこういうことだ。聞いたことあるぞそれ。

つまり自分の「中」とか「内側」とか呼んでいるものって、ただの思考なんだ。
世界には「内」も「外」もないとしたら、一体どうしたらいいんだ。
今までの認識パターンの処理ルートから外れすぎていて、理解が追い付かない。

あぁ、なるほど。だからただ「ある」のか。ただあればいいんだ。
「認識」する必要はなくて、ただ「体験」すれば、感じればいいんだ。

こりゃすげぇ。世界がまるで違うものに見える。
「生命」とか「物質」とかの境目もないんだ。
全部同じもので出来ている、振動と在り方が違うだけ。
全部最初からただ「いのちのそれぞれのありかた」の顕れなんだ。

どうしよう。世界のすべてが愛おしく見えるよ。
なんて世界は美しいんだ。私は最初からこんなところにいたのか。知らなかった。
意味もなく、ありてあるすべてのものに向けて、愛していると叫びたい。
「愛」でないものはないんだ。ぜんぶそれの別な形。
だから「意味」なんてくっつける必要も、用意する必要もないんだよ。
ただここにいればいいんだよ。考えるな、感じろ!俺。ただ、世界は美しい。

よく見ておけ、これがお前のいる本当の「世界」だ。
今この瞬間、この位置に、ただ「ある」ことを選択しているだけなんだ。

あぁもう!分かっちゃった人達が、どこか頭おかしい人に見える理由が分かった。
でも、醒めているって実はこういうことなんだ。
分かったとしても、実は何も変わらない。知ったまま生きていける。
でも世界に対する見方は、多分永久に変わる。疑いようがない。


ああ、うまく言えない。
あなた(自分)だと思っている場所、あなただと認識している何かは最初からないんだ。

すべては呼吸し、振動し、それぞれの形をとる、一つだった何かの色々な様相。
粒だったり、形だったり、スペースだったりするけど、全部一つのものの別な姿。

もう世界が曼陀羅のようだ。見えるものは見えないもので出来ている。
このただの壁に見える部屋の壁紙さえ、明滅する粒子の結びつきであってただの愛の形の一つ。

あなたが「いた」ことはかつて一度もない。
そして同時にあなたがいなかったことはなく、いなかった場所もない。
すべては「認識」と「体験」があっただけ。
移り変わる一なるもののそれぞれの形。

だから思考はあなたではない。
思考はただのスクリーンに過ぎない。そこには実体はなく、本質もない。

空の空、一切は空。



〜・〜・〜・〜・〜・〜


いやぁ、すごい理解と体験だった。
興奮にまかせて、出てくるまま書いちゃったので、乱文失礼。

なんでこんなことになったかっていうと、今朝起きて、瞑想していたら活元運動が始まったの。
活元運動っていうのは、思考を一切介在させずに、身体の叡智にしたがって、身体が動きたいように動かしていくことで生まれる、自律的な調整運動のこと。寝がえりとかあくびも活元運動の一種。
僕の変わり目の時には、よく大きな活元が現れるのだけど。

瞑想してたら、お、何か来たぞと思って、体が動き出したので、それに乗っていけるところまでやろうって感じでどんどん動くに任せてた。
一時間くらいやってたかな。そしたら何か調ったらしく、身体の真ん中にまっすぐな軸が立って、いい感じに座れたので、そのまま瞑想に移行することにした。

で、瞑想してると、体の中とか「内側」に目を向けるのだけど、そのときは体の中に大きなスペースを感じていたの。
そのスペースは体の外側の部屋の空間と、それを取り巻いて広がっていく「外側」の世界のすべてに広がっていくように感じていた。

で、それをただ「観て」いたら気がついちゃったの。
この広がりは、僕が「外側」にあるスペースにつながって、ただそれを感じているだけなんじゃないかな、と。

「内側」だと思っているものって、「外側」のすべてを感じ取って、ただ映し取っているだけなんだな、と。
ただのスクリーンなんだ、これ。

「内側」の空間と、「外側」の空間って実は同じものだ。本当は内も外もないんだ。
あれ、じゃぁ「私」ってなんだ?境界がなければ「私」もいないじゃん。
スクリーンに映っているものを見ているうちは、私は世界を本当には見ていなくて、そしてそれを思考と呼ぶんだ。
あとはもう理解が芋蔓式に紐解けていって、洪水みたいになった。

神は無限の観点(Viewing point)を持ち、人は無限の見地(Point of view)を持つ。
無限の観点を持つということは、神はどこにでもいる。
だから多分、僕たちがいる白い紙(空間)が神で、そこに描かれている黒い点(見地)が僕たち。
その黒い点をのぞき穴にして見ているのが、僕らの意識。のぞいているのは神自身。


空間っていうのが多分、カギなんだと思う。
空っていうのはすべてで、本質。だから、空間を感じることが大切。
神社でも教会でも山の聖域でも、聖なる場所は必ず、その奥の無限の空間の広がりに繋がれるようにデザインされている。

見えるものを支えているのは、その後ろ側に広がる見えないもののすべて。空間。
それがこの世界の秘密。


もう、どれだけ言葉にしても足りない。

この体験的な理解をどうやったら伝えられるのかって考えてみたら、やっぱり体験してもらうしかないんだと分かった。
昔の人もきっと、言葉にならないものを、言葉にならない密のまま、エッセンスを伝えようとしたんだろう。
だから密なる教え密教とか、神秘主義とかが生まれてきたんだなと思う。
ああいうのはよくできてるなと思うけど、きっとそうするしか方法がなかったんだろうな。

私的には、世界の真理の探究以上におもしろいことなんてあるのかなと思ってるけど、こういうのもっと分かりやすく、出来るだけやさしく深くおもしろく伝えるにはどうしたらいいのかなぁ。

実はこういう分かっちゃった体験って初めてじゃなくて、度々訪れてきた。
今回のは本当に圧倒的で疑いようがなかったけど。
そういう、波間の息継ぎのように、水の中から空の世界に顔を出して、その度に太陽の輝きを直接見るみたいなことって、時々おこる。
多分理解していたはずのことを忘れてまた寝そうなときに、文字通り目覚し的に叩き起こされる。
魂の目覚し時計には、スヌーズ機能がついているらしい。

以前、圧倒的な叡智みたいなところに一体化したと感じたとき、どうしたらこの理解を分かち合うことが出来ますかって、その叡智に訊いてみたことがある。

そうしたら特に何もする必要はないって返ってきた。
ただ「ある」こと。「ある」の質を深めていくことが大事みたい。

思考を通してじゃなく、本当に醒めたまま、あなたが世界を見て、触れて、生きていること。
そうすれば、自然にみんな目が覚めてくるよって伝えられた。

同じ部屋で皆寝ていて、一人が起きてもぞもぞし始めたら、だんだんみんな起きてくるでしょって。
起きたくない人には、部屋でもぞもぞされると最初は煩くて不快に感じられるかもしれないけど、いずれみんな目を覚まして、それぞれの魂の形を体験し始める。
地球は転換点を超えて、窓の外に日は昇っちゃったから、部屋はだんだん明るくなってくるし、周りがみんな起きてきたら、目を覚まさざるを得ない。


だから、自分は自分らしく、ただあればいい。
無理せずに、自然体でいよう。

心の感じている叡智に沿って、ただそれにしたがって進んでいけばいい。
求めらるものと、与えていきたいことの間で、あるがまま愛していこう。
あとは人間らしくばたばたしながら、もう少しこの世界を味わっていよう。
んー、結局それだけだな。
そうなんだ、結局観点が変わってもありかたってのはそんなに変わらない。
依然として、人には無限の見地を持つことが許されていて、そのどちら側にもいることができる。

生きることって、本当に壮大なギフトだなぁ。
返せないものを受け取るとき、感謝しか出てこない。

ありがたい。みんな愛してる。
ありがとう。

今日はここまで。









 

移転記念企画&セッションについて

January 15 [Fri], 2016, 10:24


ちょうど一月ほど前、何かが大きく開いて、全てが調ったと感じた日の朝。不思議な夢を見た。
何か感じるものがあったので、それについて簡単なメモをした。

深い森に隠された風の通る場所を抜けると、その奥にとても大きな畑が広がっている。
柔らかい豊かな土が盛られて、遠くまで畝を作っているのだけれど、まだ何の芽も出ていない。
その縁に沿って、何かを護るための盛り塩の結界のように、等間隔で五千円札が置かれていた。
千円札五枚の場合もあって、なぜかそれらは一律に五千円だった。
私は不思議に思い、その畑の周りをゆっくりと歩く。
その畑はなにか特別なものが植わっていて、見たこともないものを育てているような気がした。
断片的に覚えているのはそんな場面。

信頼してる人が夢解くには、私は何か大切なものを育てているらしい。
そしてそれを育むには時間がかかるのだろうと。
あなたはその大切なものを、時が来るまで十分に守り育てなければならない。
その結界はあなた自身が自らの畑を耕し、守るために与えられたものだ。
十分に自らを養い、そしてそこから生まれる最上のものを育てなさい、と。
実際的には、五千円単位の仕事を作ることになるのだとも言った。


この数日、新しい部屋に引きこもって作業している。
なんというか、すこぶる快適だ。
前の部屋も快適だったけれど、大きすぎて割とだらけてしまいやすかった。
今度の家はどちらかというちこじんまりした部屋なのだけど、その分、自分の密度が濃くて、だらけているとそういう空気が四方から跳ね返ってきて、そうじゃないだろ?と居心地悪くなって自覚を促される。適度に快適で厳しいのだ。

今回の部屋はストイックに、しかし快適さを追求した造りにしたから何かを生み出すのにはちょうどいいかもしれない。海もあるし、煮詰まったらお散歩するところもたくさんある。
ニーチェは、歩かずに得た知恵を信頼するなと言った。智慧はきっと足を伝ってやって来る。
だから今度のデスクには椅子がない。あえて立ち机として基本作業をするようにデザインした。
長時間だらだら作業できないし、集中できるのでいいんじゃないかと思っている。





そんなわけで、だらけていそうだったら喝を入れてください。
ご協力方法として、今回新規移転企画の一つ。


『無料ハイアーセルフチャネリングメッセージ』 をやります。


Twitterやブログ等で公開させていただくことを条件に、頂いたご質問にどんどんお答えしていく企画です。
Twitterの入力上限140字以内で、簡潔にメッセージをお伝えします。
出来る限りお答えしたいと思っていますが、沢山質問が集まり過ぎちゃったら抽選になります。悪しからず。

アウトプットに際し当然個人名、固有名詞は伏せます。
必要でしたら詳しい状況を送っていただいても大丈夫です。
質問のコツとして、具体的に訊けば具体的な、抽象的に訊けば抽象的な答えが返ってきます。
問いと答えは同じものの裏と表です。その状況から本当に受け取りたいことは何か?
自分に問い直し、掘り下げてから尋ねると、あなたにとってより良い答えを導く良い質問になります。

最近ヤフーモバイルの何かに登録したら、新しいアドレスをもらったのでこの企画専用にします。

tabibitonoki@yahoo.ne.jp

こちらまで訊いてみたいご質問を送って下さいませ。
お待ちしています。



〜・〜・〜・〜・〜・〜



そして件の夢のお告げで始まった新メニューも始めます。
移転特別企画、五千円メニュー。
試みとして行うので、まずは春分あたりまで。全体で100名くらいまでにしようかな。
いろんなバランスとかを見て、悪くなさそうなら調整して正規メニュー化も考えます。


『移転記念企画ワーク 地の塩』
◆90分 5000円 カウンセリングまたは必要なエネルギーワークを行います


こちらのメニューのお申込み先は以下です。
mail@tabibitonoki.org

スケジュールをご確認の上、何もないところはご予約可能です。
ある程度融通が利きますので時間等はご相談下さい。



〜・〜・〜・〜・〜・〜









 

「シエスタ通信」に参加しました

December 21 [Mon], 2015, 0:21

ラブ・シンガー 環輝美帆さんのメルマガ動画に参加させて頂きました。
先日、榛名神社に皆で遊びに行ったときに収録したやつです。
先日お引越しを手伝ってくれた、お友達のライアー奏者宮田さんも一緒です。
来年の動きについて少し話しました。



「環輝美帆のシエスタ通信vol.12「大祓音霊」2016年の展望 」












 

旅人の樹 サロン移転のお知らせ

December 14 [Mon], 2015, 0:00


この度、長らくご愛顧頂いてきた「旅人の樹 稲城サロン」は12周年の節目を持って閉じ、移転の運びとなりました。
『旅人の樹』 のメインヒーリングスペースは、横浜市元町へと移転いたしました。

この歴史ある元町は、清々しい解放感に溢れた街です。
まるで海外の港街を歩いた時のような、広がりと活気ある空気に惹かれて決めました。
これから訪れるであろう多くの魂の旅人たちの、門出に相応しい場所だと思います。

2015年12月14日は新しい旅人の樹の始まりの日です。
年内は準備しながらプレオープン。2016年年始より本格稼働予定です。

これからたくさんのご縁が繋がり、この星とこの世界に溢れるほどの光と感謝を増やすことが出来ますように。
皆さま今後とも御指導よろしくおねがいいたします。


旅人の樹は今月でちょうど12周年。一回りして次の廻りの始まり。
そして本日2015年12月14日は、天赦日と一粒万倍日と甲子日が重なるとても縁起のよい日。
この美しい日に、皆さまに新規移転のお知らせをお送りさせて頂けることをありがたくおもいます。

とはいってもサロンは現在まだ大規模リフォームの真最中。
図らずも12月22日の冬至が工事完了引き渡し日です。
陰が陽に転ずるこの新しい日に、始まりを迎えることが出来てとても嬉しいです。
すべて天の計らいの上にあるなぁと先ほど気が付きました。

年末には改めて皆さまをお迎えできると思います。
いま丁寧に心を込めて準備していますので、あとほんのしばらくお待ちください。


2015年12月 吉日









 

屋久島霊跡探訪記

May 03 [Sun], 2015, 1:02


先日、屋久島の旅より戻りました。
旅で得た素敵な出会いや、素晴らしい体験がたくさんありました。
全てをお伝えするのは残念ながら字数が多くなりすぎるので割愛しますが、一つすごい体験をしたのでシェアします。

今回は、今まであまり対外的には書いたりしてこなかった種類の情報を少し書きます。
行ってみるまで知らなかったのですが、屋久島にはとても古い時代の霊的な遺跡がありました。
そういう場所の名前を、ネットに大っぴらに出していいか計りかねたので今回は伏せておきます。
直接お会いする機会のある方は、私に直接訊いてください。

理解できない人や良く分からないという人も多いかと思いますが、そんな見方もあるのねという感じでニュートラルに受け取って下さると嬉しいです。
根拠が証明できない種類のお話なので、スピリチュアルとか超常現象とかちょっと苦手っていう人は、ここで止めるか聞き流して下さい。





<屋久島霊跡探訪記>
〜・〜・〜・〜・〜・〜


その場所はある山の頂上付近にあった。
たくさんの人々が訪れる場所でもあるのに、それを言う人や、書かれたものが殆ど見られないのは、(知らないだけかも知れないが)多分普段は非常に巧妙に、次元をずらして隠されているからだろう。
そうでなければあれ程の磁場と霊性密度を持ったポイントが、殆ど知られもせずにいる理由が分からない。いずれにせよこんな場所は初めてだった。

実はご縁があって世界中呼ばれて行ってご神事をさせていただいたりしている。
しかしハワイやセドナ等の世界的なパワースポットでも、まれにしか出会えないような体験だったと感じる。

私の理解では、聖地というのは場所のことではない。
それは場所、状況、時間、人等の、様々な要素が絡み合い、その時開かれ、顕現することを許された細やかな高次領域の空間。
そこで立ち会う特殊な機会、そのものの体験のことだ。
ある時間や空間の交点で、その座標軸に生じる開かれた特殊なゲートみたいなものだと感じている。
だから同じ場所に行けば同じ体験ができるとも限らない。
おそらくその多くは、ただ眺めのいい、気持ちの良い場所くらいのものだと知られているのだろう。

〔ある領域の周波数帯によっては、そこに迷い込むとこちらの現実との振動数が違いすぎて戻ってこれない(少なくてもこちらからは見えない)こともあるかもしれない。多分それが神隠しと呼ばれている現象で、そういうところではだいたい時間という体験の密度が変わるので、いなくなった人が何年かして急に現れたりとかいう話は世界中に散見される。〕



その日は雨が降っていた。山に人は殆どいなかった。
その磐のある山が、一目見たときからなぜかずっと気になっていた。
この日にそこに登りなさいという直感の導きに従ったら、その日は雨だったのだ。

そういうことの理由はだいたい後から分かるので、私達は気にせず登ることにした。
山に入るととても感覚が鋭敏になる。
途中すれ違った登山者は一組だけだった。
山の教えてくれたチャネリング情報から、その登山者達とすれ違うことや、その人たちの着ている服の色、昼食を食べるのに適した岩棚が先にあることなどの情報を受け取っていた。
そして怖いくらいその通りだった。
自分の意識や、繋がっているセンタリングの感覚がとてもはっきり冴え、山の上に登るほど知覚が拡がっていくのを感じた。

道のりはとても険しかったが、不思議とそれほど疲れない。
苔に咲く花や、雨の洗い清めた樹の根がとても美しく輝いていた。
雨に濡れる森の道は、まるでとても神聖な生命の内側から、世界に触れ、また触れられているようでもあった。

森の植物の間では、自己と他者の境は曖昧で、生と死の境界も殆ど意味を持たない。
全てが溶け合い、等しくつながってそこにある。

自分という意識が個の体とその世界を形作っているのなら、彼等の姿は融合した植物と、生命たちの意識の形なのだろう。
理性によって切り分けられていない、意識と宇宙の本質がユニティであるなら、こういう姿を描き、形作るのだろうと思う。



その場所に至る道の途中、何度か次元(霊性密度)が変化していく感覚を得た。
神社の鳥居を潜った時に、なんだかここから空気が変わったと感じることがあると思う。
あれは霊性密度(Density)が変わったということだ。
自然界にはあれに似た、自然の鳥居、天然の結界が無数に存在している。
(多分、鳥居や結界というものがそもそも、自然の放つ高い磁場領域を、形霊や神聖幾何学を用いて固定化しようとした試みなのだと思う)

そしてある場所から、決定的に周囲の空気が変わった。
門を護るように大きな岩があり、その先に何か大きくて偉大な存在がいると感じられた。

そしてその樹はそこにあった。
とても古い、大きな杉の巨木だった。
きっと我々のこの文明が生まれる以前から、彼はこの場所にいたのだと思う。
ああ、このひとが呼んでくれたのだなと感じた。
私はその樹のことを勝手に、オジイチャンの木と呼ぶことにした。

まるで次元の門番のような、どこか懐かしい感じの巨石に触れたとき、一緒に行った連れのうちの一人は立ち止まり、感極まったように急に泣き始めた。
彼女の前世に所縁のある波動を感じて、ハートが動いたようだ。

当時まだ宇宙人として地球に入植して来たばかりの時、この場所に彼女のソウルグループの文明が根付き、この遺跡を造ったというイメージを見せられた。
そして彼女も、そこに自分も属していたことを思い出したようだった。

その場で受け取ったチャネリング情報によれば、そこは約58000年前に地球に入植してきた、宇宙人達の文明由来の自然遺跡で、ピラミッドのような霊的な磁場を発生させる場所だった。
次元のポータルゲート、あるいは通信や転送装置のような役割を果たすものらしい。
同様に、約32000年前にも別なソウルグループの人々によって、ここは重要な意味を持つ場所として扱われていたようだ。

そのような宇宙人達や、高い霊性を持った古代人たちによって、屋久島には過去6度、高度な文明が存在したということである。
実はその山の下にあるピラピッドの周辺には、一万人規模の人々が住む、今も存在している宇宙船があるようだった。
これらは位相の違う領域に重なって存在しているらしく、巨大な磐の中にも高次元体のエーテルボディで存在している人達が多くいた。
ヴィジョンでは彼等は光の柱が踊るような姿に見え、友好的で歓迎してくれているように感じた。

彼等はこの島には、ここと同様の霊的に重要なパワーを持つポイントが、全部で7つあると教えてくれた。
そのうちの一つは物理的な身体を持つものは訪れることはできず、さらに2つはまだ開かれていない。
私たちが訪れることの可能な場所は、ここの他にあと3つあり、その大まかな位置と方角のヴィジョンを頂いた。
いずれ時間をかけて探してみたいと思う。



そこから先の景色は、とても古い遺跡の上に、自然の植物たちが根を張り、雲の棚引く世界の中に浮かび上がるような不思議な場所だった。
本当にラピュタがあるとしたら、きっとこんな景色なのだろうと思う。

雨に濡れた身体が冷えて、さっきまで震えながら歩いて来たのに、その場所から先は温度を殆ど感じなくなった。
とても不思議な感覚だったのだけど、本当に暑くも寒くもない。
薄い霧と雨が景色をぼんやりと白く染めて、いくつもの雲の筋が音も立てずに、目の前を静かに棚引き、ゆっくりと流れていた。
そこは時間がほとんど止まったような、不思議な空間だった。


ある場所から先に進めなくなり、周囲を探索していると、不意に雲と白い霧の中から、その巨磐が圧倒的な畏怖をもって立ち現れた。
私たちはまるで招き入れられるように、自然に足がそこへ導かれた。
何故だか分からないが、そこに立ち会うことを許されたように感じられた。

自然の中に神の存在を見出し畏怖を覚えた、かつての古代の人々と同じ気持だったように思う。
その場の空気の神聖さに気圧され、とても写真を撮ったりする気にはなれなかった。

温度の分からない霧雨の中、私は不意に身体から熱いものが溢れて来て、上着を脱いだ。
宇宙語の歌と祈りが口をついて溢れ、私はその巨大な岩に向かって祈りを捧げた。
その声は懐かしい再会を確かめ合っているようにも聞こえる。
自分の内側から溢れるその声を聴きながら、この祈りはまるで、孤独なクジラや狼が、遠くの仲間に向けて放つ言葉のない歌のようだと感じた。


離れがたい気持ちのまま、私達はその場所に別れを告げた。
帰り際オジイチャンの樹に再び触れたとき、不意にハートが開くのをはっきりと感じた。
ハートから愛が溢れ、見える景色や、全ての生命の輪郭が皆はっきりと美しく見える。

すべてがとても愛おしく感じられた。
ハートが開くというのは、こういうことだという感覚を思い出す。
人生の重要なポイントで、私はいつもこの感覚を取り戻してきた。
今回のこの感じは忘れてはいけないと思った。

全てが溢れる愛を通して見えるとき、すべてのものが繋がっているのが感じられる。
それが「空」(くう)ということだと唐突に理解した。


ああ、こういうことか。

これで全部解決できる。
他に何も必要ない。
つまり空で愛で瞑想だ。


そう思ったのを覚えている。



・・・・・・





〜・〜・〜・〜・〜・〜





そして山を下り、東京に戻ってからその瞑想的手法を用いた空(くう)のヒーリングワークをつくりました。
次の記事でちょっとその紹介をさせてください。

『天庭(そらのにわ)』


ちなみに屋久島霊跡探訪リトリートツアーをこの夏秋あたりに企画中。
詳細まとまったら、またお知らせいたします。












 

3/13夜 随想

March 14 [Fri], 2014, 1:26


滅多にないほどいい夜。美しい春の宵。
雨が上がって水気を含んだ微風と、まだ薄く光を隠したままの空。

それは世界がまだ誰にも触れられていなかった頃。
まるで誰もここにいなかった時代の気配を思わせる。

ときには自分が自分でいていい夜がある。
世界はまだ、誰の目からも隠されていて、誰も己の外側に目を向けていない。
そういう夜には、霧のように優しい混沌が満ちている。


小さな音でピアノを弾いて、密やかな歌を紡いで、誰もいない夜にただ殻を脱いでみた。

思ったよりたくさん着込んでいたらしい。
自分の溜めこんでいたものの山に軽く驚く。
何をそんなに必要としていたのか、吐気とともに吐き出してみた。

いろいろ着込んでしまうのも、きっと言うほど嫌いじゃないのだろう。
だけど人には人知れず、自分のためだけに開ける、小箱のような夜も必要だ。


書きたいときにだけ書くと決めたら、割と書きたくなった。
誰のためでもない、自分のためだけに書けばいい。

好きなことを好きなように、本当に文字通り好きなようにするとき、きっとその人の本当の質を分かち合える。

美しいこと、大切なことは、人の為にしてはいけない。
それは自ずからそう(人の為に)なってしまうものだから。

本当は生きることは、とてもエゴイスティックな行為だ。
そこに自分の喜びを見出だせないことには、本質ある価値は含まれない。

あなたが本当にそこにいて嬉しいと、心から思えるときにだけ、あなたの本質を分かち合えばいい。
こうあらねばならないが強すぎて、嘘ばかりまとって優しくあるより、きっとその方が本当に優しい。


ただそこにあるかないかだけだ。
それを真実と呼んでも、愛と呼んでもいい。
でもきっとそれは、結局言葉にはなりきれない、何か自分や宇宙や命の本質、理由みたいなもの。

魂はどこから来たのかとか、神聖ってどういうことかとか、生きる意味や死ぬ意味を問うような、同じ質の問いかけに属している。

それを持って生きていけるかだけが、きっと重要なことなのだ。
そして自分にとって何が重要で、何が大切なのかは、自分だけがはっきり知っていればいい。

残りのことは誰かが勝手に決めてくれる。
そうやって幾重にも用意された選択肢の中で、ぶれない芯(真)を紡いでいくことが、生きることの意味なんじゃないかと思う。


こんな雨上がりの静かな夜には、心を覆っていたものが静かに取れて、とても素直に対話できる。
せっかくなので今日は残しておこう。


いつも受け取ってくれてありがとう。
よい夜を。









 

波乗り宇宙論

August 16 [Thu], 2012, 17:28


先日、野見山文宏さんという方のお話を聞いてきた。
以前知り合って、一度ゆっくりお話したいなと思っていた方だ。

感じてわかる!セラピストのための解剖生理」という分かりやすい本を書いている。
普段は伊豆で自然農やサーフィンをしながら、解剖学の講座や鍼灸やボディワークの個人セッション等をしている方。

野見山さんの話の中で、いくつかインスピレーションをもらった。
お話の内容は、なぜその生き方をするようになったのかという、前半の自伝的な部分と、その自然に沿った生き方の中で学んだ智慧のシェアだった。
そのマスタリーマインド(達人の意識)の考え方について、感じたことを忘れないうちに書いておく。

結論から言えばお話の概要は、農も身体もサーフィンも、自然を扱うということ。
そしてその自然、宇宙は制御できない。
だから自然に沿わせて自らを研ぎ澄ましているしかないということ。

マスタリーマインドとは抗わないこと。
言い換えればそれは、コントロールしないで生まれる何かを意識的に扱う心の保ち方。
つまりマスターの意識の本質とは、プレゼンスであるということ。

伝説的なサーファー、ジェリー・ロペスが波に乗るとき、彼は全てと調和して、まるで波の上で瞑想しているようだと表現された。(写真↑)
そしてそれはおそらく正しい。

極められた全てのスポーツはそうだが、サーフィンは特に瞑想的な行為だ。
そこにはプレゼンス(今、ここという体験)が不可欠だ。

プレゼンスの代表的な兆候である、サイレンス(静寂感)、スティルネス(静止感)、ノーマインド(無思考)、ノータイム(無時間)、ノーシングネス(空)は、アスリートのいう「ゾーンに入る」という状態に似ている。
プレゼンスは瞑想を極めた時、あるいは仏陀のいう悟りの状態とも言えるが、それは全てと一体であるという感覚を伴うという。

自他の区別がなく、宇宙と自分がすべて繋がり、一体であるということ。
そしてそのとき完全な調和がもたらされる。
それこそがマスタリーマインド(マスターの意識)だ。

例えるなら、海は宇宙そのものだ。
平面的な水面の下に、海は巨大なエネルギーとポテンシャル(可能性)を含んでいる。

そのエネルギーが実際に水面に作用するとき、波として実体化する。
海にポテンシャルとして潜在していたエネルギーが、リアリティを持って、目に見える形に実現化する。

そしてその波が、最もエネルギーを持つのは波の一番上、波頭の部分。
ここがエネルギーが最も強力に現実化するポイントだ。
宇宙に潜在する巨大なエネルギーが、現実化し続けている一点。
優れたサーファー、マスターはこれを捉える。

だが波のエッジである、エネルギーポイントに至るまでは、サーファーは当然自らの力で漕がなければならない。
これは努力なしに全てが実現するわけではないということ。
その宇宙の最高の力を捉えるためには、常に意識を研ぎ澄ませ、自らを自然に沿わせて準備していなければならない。

しかし一度、そのエネルギーポイントを捉え、波に乗ったならば、マスターは全てを手放す。
我やコントロールを持ったまま、自然に向き合うことはできない。エゴを前に波に立てば、自然の力に容易にひっくり返される。
その自然のエネルギーポイントを捉え、そこにあり続ける力こそがプレゼンスであり、宇宙の力に乗り続ける大いなる秘密だ。

それは瞑想と呼ばれ、無為自然と呼ばれ、マスタリーマインドと呼ばれる。

「コントロールしないで生まれる調和を意識的に扱う」
これは一生かかって探求するに値する最高の遊びだ。

なるほど、地球は神の遊び場で、神は私達を通して自らを体験する。
よいテーマを頂いた。感謝です。


ありがとう。







 
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  • アイコン画像 現住所:神奈川県
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