観想(テオリア)5
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毎日、何か書こうと思いつつも、義務になったとたんに出遅れ気味。
三日坊主になりかけながらも、辛うじてまだセーフです。
難しいのは始めることより、継続することというのを実感中。
朝書いていても、昨日の夜にアップされたことになっているのは、編集始めたのが昨夜だから。
日々が過ぎていくなかで思うことというのは、結局自分をどこか、誰かに映して見た、己の闇が入り口なんだよなぁ。
でもそればっかりじゃ読まされてる方は退屈だよね。
僕にとって内観は心の掃除みたいなもの。
瞑想はどちらかっていうと体のエネルギーのクリアリングに近い。
心も体も繋がっているから、どちらがどうって切り分けはできないけど。
植物との対話(チャネリング)も心が綺麗になる感じでとても好き。
植物や鉱物は本当に優しい。
彼らはこちらが弱っているとエネルギーをくれてしまうのです。
だから植物が弱っているところは、人や場が弱っているか、無理をしている場合が多い。
自分の大きさや状態に関わらず、弱っている命に手を差し伸べてしまうのって、きっと水が上から下へ降りていくように、自然の法則みたいなものなのかもしれない。
植物だって動物だって、他の命と自分が結びついているというのを、基本的にはその奥で知っているような振る舞いをしている。
ある程度エゴが生まれると、そういう法則から一時的に離れてしまうみたいだけど。
だから、鉱物や植物はエゴがなくて純粋なのだと思う。
人も純粋になっていくと、だんだん自然に他者に優しくなれるのかな。
たとえ自分が苦しくても、関係なく誰かに優しくできるのって、素直にいいなと思う。
自分のことばかりで苦しんでいるときは、生きるのって辛く思えるけど、自分の枠が、エゴじゃなくて他者や関係性や外界まで含むようになると、生きるのって比較的楽になって、その上いろいろ助けてもらえるようになる気がする。
みんなつながっているんだろうね、ほんとはきっと。
心地好さって、皆が幸せになることなんだろうけど。
あーそっか、全体が幸福にならないうちは個人の幸福は在り得ない(宮沢賢治)ってそういうことか。
みんなひとつってことか。
くもの巣のどこが欠けてもその美しさは損なわれるし、その影響は全体に振動として伝わるってことなんだな。
じゃぁ、個人てなんなんだろうね。
ほんとは自分で思うほど、偉いもんじゃないんだろうけど。
でも個を見てると全体が見えず、個を無視したら全体は完成しない。
この間、シャーウッドでまさみちさんが、自分のことを満たすと、人の役に立ちたいっていうことくらいしか、欲求がなくなっちゃうんですって言っていた。
自分の完成が全体の完成への始まりってことなのかな。
欲を見たらキリがないから、自分にこだわらなければ案外早くそっちに行けちゃうのかもしれないけど。
では自分を満たすには?
”素直に生きて、その瞬間々々に嘘がないこと”
なるほどね。じゃー自分が何をごまかしてるのかを見ていかなきゃね。
んー、今日はこんなもんかな。
では次回へ続く。
ありがとう。
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