海が書斎


海が書斎だなと思った。

よい書斎の条件とは何か?

何らかの化学反応が生み出されるために、快適に一人で居られること。
それを脅かされないセーフティ。
インスピレーションを受け取るために空になれる空間。
自分と宇宙と繋がれることを確保された時間。
あたりかな。

それってほとんど聖地では?
確かに書斎は聖域であるべきだが、書斎と聖地は似ているなと思う。

まず聖地というのは場所のことではない。
ある時、ある場所に、ある人が重なるとき、そこで生じる内的な体験だ。
すべてが揃わないと顕われない。

ある神聖な時間、ある開かれた場所に、それを受け取れる開かれた観測者が現れたとき、齎される恩寵を聖地として感覚するのだと思う。

これは昔セドナのある場所で理解したことだ。
聖地に出逢うにもTPO(Time, Place, Observer)が必要だ。

明け方の海は、ほぼそのすべてを満たす。
そこには空がある。

空(くう)は、まだ形になっていないすべてを、形にならぬまま受け取るスペース。
その時間的、空間内、体験的な一致だ。

何かが生まれて来る前にある、潜在的な可能性に満ちたスペースに一致すること。
実際のところそれは、良質な書斎で行われる最高のプロセスに等しい。

無精な物書きが触発されて、日に2本目の記事を上げられるのだから、その有効性は証明されている。

最高のヨガルームで、最高の瞑想部屋。
その上、最高の書斎として機能する聖地。
可能な限り通うしかないじゃないか。
まして暑くも寒くもない季節、雨が降っていないとなるとさらに希少なのだから。

なんというか、すごい場所にいるな。
その完璧さに打たれる。

人生の欲と闘争の多くの部分が、その静寂とスペース、一体への一致を求めて、最終的にそこに帰結するとしたら、私達はなんという遠回りをしているのだろうか。
朝の海や森には、全てが既にあるというのに。

唯一の問題は早起きの必要があるということ。
だがそれも最近は何故か、愛猫のハウル氏が毎朝5時に餌くれアラームで起こしてくれる。

大き過ぎるギフトが隣にあると、ひょっとして人はうまく受け取れないのかもしれない。
大き過ぎて返せないものは、ただ感謝と共にあるしか出来ないから。

自分で何かをコントロール出来ると思っていたら、きっと居心地悪くなる。
そういうギフトは、全部受け取って、全部また他の誰かに渡していくしか出来ない。

無限に近いものを受け取っていると知っているとき、与えることはただ循環への参加だ。
本当にそうありたいと願う。

あらゆるギフトを今はありがたく受け取ろう。
いつか私の残したものさえ、大きな循環の中で役に立つかもしれないから。










 

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