最近よく考えている意識、マインド、慈悲についての良文があったので転載しておきます。
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こんなことがあった。
ある精神分析医が友達と
朝の散歩に出かけようとしていた。
すると、
その患者の一人の狂人が、
走って来ていきなり
精神分析医の背中を猛烈に殴った。
彼はよろめいて地面に倒れ、
その間に男は逃げた。
彼は気をとり直して
立ち上がると歩き始めた。
友人は驚いて言った。
「君は何もしないのか。
何とかしなくちゃ。
ほっといちゃ駄目だ。
あの男は気違いじゃないか」
精神分析医は言った。
「これは彼の問題だよ。
殴ったことは、
彼の問題で私の問題ではない。
なぜ私がかき乱されなくちゃならない」
彼は正しい。
と言うのは、
もし腹を立てている者があるとしたら、
それはその人間の問題だからだ。
侮辱する者がいれば、
それはその人の問題だ。
悪口を言う者があれば、
それはその人の問題なのだ。
こちらがそれによって妨害されなければ、
人はみな妨害されない。
だが、人はすぐにかき乱される。
ということは、
相手の怒りと侮辱は、
単なる口実に過ぎないということだ。
こちらがその準備をしていたのだ。
内側では沸騰していて、
ただなにかの口実が
身に降りかかって来るのを
待っていたに過ぎない。
僧璨(ソウサン)は言う。
「心乱されずにあれば……
そして源まで落ちれば、
乱されることはない…
世の何事にも害されることはない。
物事に害されることがなければ、
それはもはや、昔のそれではない」と。
そしてその質は
当人の態度によって変わる。
誰かに侮辱されたとして、
それが侮辱に見えるのは、
自分が侮辱されるからだ。
自分が侮辱されなければ、
それが侮辱に見えることはない。
自分が侮辱されていないのに、
どうしてそれが
侮辱に見えることがあり得よう。
誰かが怒っている。
それを怒りと感ずるのは、
自分がそれによって
かき乱されているからだ。
もし自分が乱されていないなら、
それを怒りと感じることはあり得ない。
その質が変わるのは、
あなたの解釈が変わるからだ。
こちらが違っているからだ。
誰かがあなたを憎む。
それを憎しみと感ずるのは、
こちらがかき乱されるからだ。
自分が乱されておらず、
しかも自分を憎む者があったとして、
それを憎しみと呼び得るだろうか。
どうしてそれを憎しみと呼び得よう。
その古い呼び方では用をなさない。
「昔の心はそこにない」のだ。
あなたは慈愛さえ感ずるかも知れない。
哀れみを感ずるかも知れない。
「いったい、この人はどうしたのだろう。
なんて苦しそうなんだ。
しかも、その必要はないのに、無益なのに」
と感じることだろう。
あなたはその人がその状態から抜け出せるように、
助けてさえあげるかも知れない。
人が腹を立てる時には、
自分の肉体を毒しているのだから。
その人は病気なのだ。
あなたは、彼がそこから抜け出せるように
助けてあげるだろう。
癌を病む者がいたら、
その人と喧嘩を始めたりはしない。
その人を助け、世話し、
病院に連れて行くだろう。
仏陀のような人、
僧璨(ソウサン)のような人にとっては、
人が腹を立てているということは、
その人の心が癌で病んでいるということだ。
慈愛こそが必要だ。
その人は助けを求めている。
そして、
この世がもう少し光明を得たなら、
誰かが腹を立てた時にはいつでも、
家族の全員と友達が
その人をいたわるだろう。
彼は治療を必要としている。
その人と喧嘩をしたり、
腹を立てたりするのは馬鹿げたことだ。
それはまったく馬鹿げた愚かなことだ。
相手が既に病んでいるのに、
みんなでその人に対立して、
どうやって
その人を助けようと言うのかね。
肉体的な病に対しては
私たちは同情する。
心の病に対しては、
同情しない。
それは、
肉体的に病む者がいても、
私達はそれを
自分に対する侮辱とは考えないからだ。
ところが誰かが心を病んでいる時には、
私たちは、
相手が心を病んでいるのは
自分のせいだと考える。
この態度は、
自分もまた、
病んでいるためにあるものだ。
ひとたび、
自分が乱されてなければ、
すべては一変する。
自分の態度が変わるからだ。
あなたは別人だ。
全世界が違っている…
「もはや、昔のそれではない」。
‘分別の思いが起こらなければ、
昔の心はもはやない。’
分別。
これはいい、あれは悪い、
これは好きだ、あれは嫌いだ……
この分別の思いこそが、
人のマインドの基底だ。
もし、分別が消えたら、
マインドは奈落に落ちる。
人は、自分の源に到達する。
そして、その源に、すべての意味、
すべての歓喜、
すべての祝福があるのだ。
Osho - Neither This Nor That
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