霊感ってなんだろう







先日「りゅーさんて霊感ありますか?」って訊かれてなんだかとても新鮮だった。



霊感があるってどういうことだろうね。

そういう問い掛けに対して、いかに分かりやすく深く面白く答えられるかがプロフェッショナルの本領であろうと身を正す。

12年以上スピリチュアルカウンセラーみたいなことをやっているけど、そういう素朴な問いかけみたいなものに、真面目にちゃんと答えようとする大人でありたいなと思う。



なので答え忘れてしまう前に書いておこう。

霊感があるってどういうことだろうって問いは、今の自分だったらこう答えるかなぁ。







たとえばカエルって生き物がいて、水中と水の上(空気中)とを同時に見ることのできる目を持っているとする。

で、それらは本来位相の違う、ステージの違う世界なのだけど、両生類っていうのはその両方にまたがって存在している生き物。

本来交じり合わない世界の境界が水面で、カエルはそのどっちもを行き来することができる。

そしてカエルはどちらの世界も存在していることに疑いがなく、そこに適応している一つの個性。

一方で魚や蝶は、もう一方の世界が存在していることに、カエルほど認識を広く持っていない。



水中と空気中っていうのは同じ物理的な世界の中での境界なのだけど、別の縮尺で見るとそういう境界線は他にもたくさんある。

たとえば微生物の世界と人間の世界は、人間の感覚と認識の中では交じり合っていないけれど、実際には認識している位相(レイヤー)が違うだけで、とても深く交じり合っているし同じ世界に同居している。



だから人間の意識できる世界というのは焦点を当てているレイヤー(層)がある。

レイヤーっていうのは、たとえば一枚の絵の背景と人物を別々に描いて、あとで二枚の絵を重ねると一つの統合した絵になるっていうあれ。一枚一枚がその焦点を当てている層(レイヤー)になっていて別れている。

で、僕たちは知らず知らずのうちに、認識できるレイヤーをできるだけ細かく分けて、自分が見たいもの、信じたいものだけを注目するように、訓練させられてきた。

だから知覚していても認識できないものというのはたくさんある。

子供はまだレイヤーがそれほど分かれていないから、感じたものをそのまま見ることが出来る場合が多い。



霊感があるっていうのは、認識しているレイヤー間の区別が少ないか、あるいは意識してフォーカスできるレイヤーの数が多いということ。

それらの可能性に対して、できるだけクリアにありのまま見ようとしているということ。

そしてよくフォーカスすることの多い周波数帯は、ピントを合わせやすくなっている。

使いこんでいる道具は使いやすい。認識も同じ。



だから人が、自分の扱える最大幅の知覚力を、なんの制約や制限もかけずに、身体のスペックを行使したら多分今とは全く違う世界が見えている。

そういう意味では霊感というのは認識できるレイヤーの1チャンネルにすぎない。

しかしそれがどういうことなのか、体験から理解に落とし込む過程で、ものすごく大きく情報が失われ、かつ歪められる。だから実際には私達は、ありのままの世界など殆ど知ることはできない。

それに近い世界を感じられるとしたら多分、左脳の機能が失われた状態の人か、薬物によってものの意味を認識しようとする機能を、著しく制限されている場合とかになると思う。



だからありのままの感覚を、ありのまま否定しないというのは一種の霊感で才能。

インスピレーション(霊が入る)ってそういうこと。

さらに言えば、霊っていうのは空間そのものに遍く偏在する意識のレイヤー。

個別化された霊魂っていうのも確かにあるのだけれど、その根っこまで辿れば多分全部一つのものの別の形だと思う。



こういう、霊感があるとかないとかみたいな話題だと、多分知りたいのは実際にそれを視覚的に認識することができるかというようなところかと思う。

これは認識の得手不得手は確かにある。”視える”というのは視覚優位の人の場合の情報処理パターンで、受け取った情報(エネルギー)を視覚的ヴィジョン的に処理、再構築した場合の認識の仕方だから。

僕の知り合いは、霊的におかしな場や存在を感じるときは”臭い”と言っていた。

あと僕の場合は霊的な位相でのコンタクトを受けたときには、耳鳴りがする。

言葉として情報を受け取る場合も、基本的にはエネルギーを言語的に再構築して翻訳しているということ。



また見えているという場合も、僕の場合は目で見ているのと同じように見えているわけではない。

目で見ている画面に、もう一つの、強いて言うなら霊的視野みたいなレイヤーを重ねて見ている感じ。

この視野は多分第三の眼ってやつで、身体の外側の霊魂のフィールド自体の持っている知覚じゃないかな。

だから目を瞑っていても、ある程度感じられるし、遠隔視やサイコメトリや前世やオーラを視たりするときも、多分同じ所を使っている。



だから使おうと認識すれば、機能的には誰でも持っている。

一般的に普段使ったことがないと思っているから、使い方がよく分からないってことだと思う。



また一般に怖がられている幽霊みたいなものというのは、実際には魂(直霊)そのものではなく、魂魄(こんぱく)でいうところの魄(はく)の部分で、魂の抜け殻みたいな、残された部分。

生命の本質の残滓みたいなところだと思うから、ぶっちゃけ物理的な焦点(肉体)を持って存在している生命体にはそれほど影響はない。

残り香みたいなものだとおもう。いずれ消えていくから恐れなくてもいいと個人的には思ってる。

いたずらに恐れるから、恐れなくてはならないような現実体験の創造に力を与え、それに巻き込まれていく。



ただものすごく臭い残り香は、その中に入ったら確かに不快な影響を受けることはある。

そういうものは身体感覚にしたがって、なんとなく嫌な感じを避けていれば避けられる。

だから頭でっかちな認識に頼るのじゃなくて、体の感じるなんとなくの好き嫌いに従って生きればいい。



霊感ていうのは、そういうものに身をゆだねて、殉じることも厭わず、受け入れて生きている在り方みたいなものだ。

人より世界を分けて捉えようとする境界の数が少ないか、人よりも多くの認識を受け入れるための棚の数が多いかだけだから、本当にただの個性の形だと思う。



付け加えるのならば霊感て、見ようとしなければそこにあったと気が付くような、そんな種類の知覚の仕方のことじゃないかな。

体の疲れや考え事ばかりに囚われていたら、自分を取り巻く竹林に降り注ぐ蝉しぐれが聞こえなくなっていたとか。

海を見ていたら、気が付くと波の音が聞こえなくなっていたみたいな、マインド優位になっていると体験し損ねる現実の別の位相。



自分の思い込みと囚われに沿って展開していく、マインドストーリーを手放したら、もっと世界のありのままの形を体験できるようになるのだと思う。

マインドに流れている思考っていうのは、スクリーンの中に流れている映画みたいなもので、しかも私達はそれぞれ見たいような視点から、その話に感情移入して見ている。

だから本当にここで、生命を持って体験している現実を、実際にはほとんど見過ごしているのではないかな。

マインドの映画よりも、面白いライブ(生)を見に来たのを思い出せたらいい。



そうしたら非日常と日常は逆転する。

それがスピリット(霊)として生きるということで、それが僕らの元々の意図の形のはずなのだから。







とりとめなく書いてみたけど、今日はこんなところかな。

問に答えると自分でもいい訓練になるので、何かあればご質問等お待ちしています。

それではまた。



















 

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