沈黙の祈り


素晴らしい良文。覚書として。前回より引き続き、清水 友邦 氏の投稿より転載します。

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治癒の秘訣を「何かをしようと働きかけないこと、自分の知恵で何かをするのではなく、世界の英知にすべてをゆだねることだ」と「祈る心は、治る力」(日本教文社)の著者ラリー・ドッシー医学博士は言っています。

カリフォルニア州の認識科学協会の副会長B・オーリーガンは、癌などの難病で助からないと思われていた患者が奇跡的な自然回復をしたケースを調べました。

すると奇跡的治癒が起きた患者はなにがなんでも絶対に病気を治すとは思っていなくて、ただ病気の存在をみとめ、すべてがあるべくしてあるという受容と感謝の心をもっていただけでした。

これは病気を諦めて、もう、どうなってもいいという投げやりな姿勢ではありません。

オレゴン州セーラムのスピンドリフトという名の研究機関では、長期にわたって祈りの効果についての研究を行いました。

その研究によると細菌培養容器に糸状菌を入れ、そこにアルコールを入れて、死なない程度に損傷を与えた菌を二つの容器に分けて、一つはヒーラーが、「損傷が治って成長しますように」という「指示的」な祈りを行いました。

もう一つはただ愛と思いやりの意識だけを向けた「非指示的」な祈りを行いました。結果は「非指示的」な祈りのほうが、指示的な祈りの2倍も効果があったのです。

「指示的」な祈りとは結果を求めて、癌が治るようにとか、痛みが消えるようにと祈ることです。病気を治したいと強く思う「指示的」な祈りは自我作用を強めます。
「前向きな考え」や「希望をもつ事」や「プラス思考」も思考なので自我を強める副作用があるのです。

世界に境界を作るのが自我の働きです。

境界があるとエネルギーの流れは阻害されてしまいます。

気の流れ(生命エネルギー)が滞る部位に病気が発生すると東洋医学は考えます。

一方「非指示的」な祈りは自我の欲求を押し付けようとはしません。いかなる結果も想像したり、「こうなったら」と期待したりせず、癌を拒まずに受け入れます。ただあるがままの自分を受け入れるのです。

病が治っても治らなくとも受容的な態度をとり感謝の気持ちを持つことは境界を取り払い万物との一体感をもつことでもあります。

策略を巡らすよりも「ただあるがままでいる」方が病を癒す力が湧き起こるのです。

テキサス州の一般人のがん死亡率が15~18パーセントなのに知恵遅れと精神疾患の人たちのガンの死亡率はたった4パーセントでした。精神病患者のがん死亡率は7パーセントなのに一般人のそれは13パーセントでした。

1925年から1978年まで精神病者には白血病の症例がひとつも記録されませんでした。

これは患者が死のイメージをもたず病に恐怖を感じたりしないほうがガンの死亡率が下がることを意味しているようです。

免疫と治癒の関係は患者が病に対して、どのようなイメージを持つかにかかっています。祈りのヒーリング効果が最も高くなるのは未来に対する希望や、特定の目標などが一掃されたときでした。

病気を治そうと(すること・doing)思考を強めると本能のエネルギーを奪ってしまい免疫力が落ちます。

いまここに生きていること、(あること・being)に感謝していると自然治癒力が活性化して病気が治癒していくのです。

マインドが沈黙する祈りはハートの扉が開いて愛が溢れてきます。
愛は自分と他者の境界を溶かしてしまいます。

「非指示的」な祈りは生命の本質と共鳴しやすく、その振動が時空を超えて相手の心と同調して癒しが起こるのでしょう。

心は物質的な領域を超えているのです。

ラリー・ドッシー博士は「かつて、われわれはこの文化において、次の二つのうちどちらか一つを選んで生きなければならないと教えられてきた。つまり合理的で分析的に生きるか、霊的で宗教的に生きるかの二つである。いま人びとは、こうした分裂状態で生きなくてもよいと気づきだしている」といっています。

未来の治療の処方箋は非指示的な祈りと瞑想が入ることになるでしょう。

キリスト教の伝統がある西洋では祈りが神に近づく方法でした。

シトー修道会司祭のトーマス・キーティングが提唱する「センタリングの祈り」は内側にある沈黙に焦点を合わせるために聖なる言葉をとなえます。

これはマントラを唱えるバクティヨガと同じ技法です。

思考が湧いて内側の静けさを失ってしまった時に静寂を思い出すために聖なる言葉を繰り返すのです。

西洋の祈りも東洋の瞑想と同じことを指していました。

東方教会の修道士の基礎を築いた4世紀のエジプトのエヴァグリオス・ポンティコスは言葉も思いも浮かばない沈黙の純粋な祈りを次のように述べています。

「祈りのとき、あなたの頭は何も語り得ず、何も聞こえないように努めなさい。そうすればあなたは本当に祈ることができるようになるだろう」

13世紀のドイツの神秘家マイスターエックハルトは神に何かを与えてほしいと望んだり、何かを取り去ってほしいと願うことが「祈り」ではないと言っています。

何も望むこともなく、何かになりたいと思うようなものが何ひとつない沈黙の中で、祈りが向けられる対象と、祈る者とがひとつとなること、つまり、神と一であること、神と同じ姿でいることと言っています。

キリスト教神秘主義では言葉で表すことができない深い沈黙を「神的暗闇」と呼びました。

神は思考の領域を超えているのでマインドが沈黙した時に神に気づきます。

沈黙の祈りのうちにあるとき自己は自我の境界を超えて聖なる全体と一つになります。

それが沈黙の祈りです。






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