ピアニスト高橋全さんの記事より引用転載します。
ほぼ自分用覚書。
音楽と神の本質に触れる良文でした。
音符ではなく休符に神が宿るというのが痺れる。
音と音の間に神が在る。色即是空空即是色。
これは神の偏在の話だなと思った。
あなたが神を見る時、神もまたあなたを観ている。
きっと自分が空の中に神を見る視点と、神が私を通して世界を観る視点とが混じり合う時、そこに真(神)が宿るのだ。
音楽は見える色(現象)と聞こえない空(潜象)の交差点なのだ。
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「全ての休符に神が宿るように」
久しぶりにバッハの「Das Wohltemperirte Clavier」(我が国では残念ながら「平均律」と訳される)の第二巻を一曲一曲譜面を見ながら、通して弾いていた時・・・
長年連れ添ってくれたウィーン原典版の譜面のあるページに不思議な書き込みを見つけた。BWV880F-durのプレリュードの3ページ目だけ、そこにある全ての八分休符に記しがつけられている。
その休符そのものは、別になんてことは無い。声部それぞれの始まりと終わりを考えれば必然的に書くであろうバッハらしい律儀な記譜だ。(ただし、バッハはたまに横着もするけどw)
書き込んだのはどうやら僕らしい。そしてその記憶を辿っている内に思い出した。
それは多分1985年の暮れか1986年の初頭。ハンブルクの中心部アルスター湖の東側にあるSt. Gertrudという協会でオルガニストをしていたHans Schultzeさんにオルガンのレッスンを受けに行っていた時のことだ。
彼には主にそれまで弾いたことのないオルガンのレパートリーを習っていたのだけど、たまにチェンバロでレッスンを受けているバッハの曲などをパイプオルガンで弾いたりもしていた。
Schultzeさんの演奏はこれといった派手さは無いんだけれど、流れがすごく自然で、僕は彼の演奏を聴くのが大好きだった。
そんな彼が、僕が弾くこのバッハのF-durのプレリュードを聴きながら3ページ目に来た時に何か早口のドイツ語で言った。聞き取れなくて僕は止まってしまいそうになったのだけど、彼は「そのまま弾き続けて」(彼は生徒の演奏でも滅多に途中で止めることはなかった。それだけ一曲通しての流れというものにこだわっていたのだと思う)というので最後まで弾き通したら。。。
その3ページ目の八分休符を指さして「この全ての休符に神が宿るように弾きなさい」と言ったのだ。
休符に、しかもごく短い八分休符に「神が宿るように」ってどういうことやねん?と思いながら一つ一つの休符を意識して弾いてみると「Nein!」という。
「間を空けたり、テンポを遅くするのではなく、そのままの流れの中で・・・」
と言って実際に彼が弾くと、確かにその休符が一つ一つ際立って聴こえるように感じる。
でも、どうやって弾けばそうなるのか?具体的なことは何もわからず、しばらく僕は悪戦苦闘していた。
その一週間後だっただろうか?僕のオルガンレッスンの前に、彼は合唱の指導をしていて、その時も「ここの休符に神が宿るように」と言っていた。言われた合唱団のメンバーも最初どうしていいのかわからず、キョトンとしていたけれど、彼は教会の向かい側の壁を指さして「君達の耳をあそこに持っていくんだ。あそこで鳴っている響きを聴きながら歌って、休符を感じるんだ」と言った。
そのたった一言で、彼らの歌が変わった。
合唱団の練習が終わって、オルガンの演奏台が空いたので、僕はいつもよりゆっくりと例のF-durのプレリュードを弾いてみた。弾き終わったら、横にSchultzeさんがやってきて「それだ!」と言ってくれた。
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