コミュニケーション


-伊藤 守さんの文章より-



「この気持ち 伝えたい」


それがコミュニケーションのはじまりでした

コミュニケーションはキャッチボール。

ぼくが投げると、きみが受けとる。

こんどは、きみが投げて、僕が受けとる。

それから、また、ぼくが投げて…。


キャッチボールにはボールが必要なように、

コミュニケーションには、あなたの気もちが必要です。


キャッチボールは、近すぎても、遠すぎても、むずかしい。

コミュニケーションも同じです。

恋人や友だちや子どもは両親にあんまり同化しすぎては、

コミュニケーションはとれません。


コミュニケーションがいっしょにはじめるものであるというのは、幻想です。

はじめるのは、いつも、どちらか一方。

あなたがボールを投げることからはじまります。


でも、じぶんから投げるより、むこうからくるのを待っていたい。

なぜって、じぶんから投げて、無視されると、悲しいから。


いきなり、拒絶されたこともあるし。

その人とキャッチボールがしたくて投げたボールを、

別の人にわたされてしまったこともある。


わたしたちは、幼いころから、聞かれないことになれてきました。


「忙しいから、後でね」

「そんなこと、言ってないで!」


だから、つい、どうせ、自分が言ったって、と思ってしまう。

だから、自分からボールを投げるには、勇気がいります。

勇気をだして、ようやく投げたボールをポイと捨てられてしまった…。

そんな経験はありませんか。


心をこめて、やさしいボールを投げたのに、相手がけり返してきた…。

そんな経験はありませんか。


直径30センチのボールを投げたのに、

直径5センチのボールが返ってきた…。

そんな経験はありませんか。


じぶんからボールを投げて、悲しい思いをするくらいだったら、

最初からボールを投げないで、

だれかが投げてくれるのを、待っていたほうがいいや。

でも、誰も投げてくれなかったら…。

いきなり拒絶されたり、けり返されたりして、

悲しい思いをしているのはあなただけじゃない。

あなただって、知らないうちに、そういうボールを投げてない?


だれもが、じぶんのボールを受けとめてほしいと思っています。

だれもが、じぶんのことを聞いてほしいと思っています。

だれもが、じぶんがここにいることを認めてほしいと思っています。


では、受け入れられたがっている幾多の人をいったい、

だれが受け入れるというのでしょう。


もし、あなたの投げたボールを相手がちゃんと受けとめてくれたら、

もし、あなたが、相手の投げたボールをちゃんと受けとめれば、

そこで、コミュニケーションはひとつ、完了します。


でも、

「ちゃんと受けとめてもらえなかった」

「とうてい受け取れないボールを投げつけられた」

そんな未完了なコミュニケーションを、

私たちはたくさんかかえているのです。


未完了なコミュニケーションがたまると、

わたしたちの情緒は不安定になります。

いつも、いらいらしたり、疑い深くなったり、

怒りっぽくなったり、ひがみっぽくなったり、無愛想になったり。


ときどき、それが爆発して…。

それから、だんだん何も感じなくなり…。

そうやって、ひとりぼっちになっていきます。


あなたが投げたボールを相手が上手に受けとめてくれなかった

としても、その人を責めてはいけません。


ひょっとしたら、その人は、ただ、

キャッチボールがへたなだけかもしれませんから。

緊張して、つい、手がすべってしまっただけなのかもしれませんから。

あなたのボールが、重すぎただけなのかもしれませんから。


もし、上から、

一方的に言われてしまったら、どんな気持ちがしますか?

一度に、3つも4つもボールを投げつけられたら、どんな気もちがしますか?

あなたがいま受けとっている相手の反応が、

あなたがとっているコミュニケーションそのものです。


たとえ、あなたがそれを、認めなくても。

コミュニケーションには、良いコミュニケーションと、悪いコミュニケーションがあります。

良いコミュニケーションは、コミュニケーションが交わされていること。

悪いコミュニケーションは、コミュニケーションが交わされていない、

あるいは、コミュニケーションのようなものが、交わされていること。


コミュニケーションのようなもの。

それは、社交辞令だけ話すこと。

役割だけから話すこと。

つまり、上司として、先生として、後輩として、夫として,妻としてだけから話すこと。


コミュニケーションのようなものを続けていれば、

さびしい思いやつらい思いをする危険もありません。

思いもかけない感情がでてきてしまったり、

喧嘩になってしまったりする危険もありません。


でも、思いもかけない喜びや、

生きていることの実感を体験することもないでしょう。

もし、相手に行動が起こらないのであれば、

そこにコミュニケーションがなかったのです。

あったのは、ただの社交辞令。

ほんとうのコミュニケーションには、いつも新しい行動が伴います。


コミュニケーションと人間関係は違います。

人間関係は、固定化したひとつの状態。

コミュニケーションは、それを変えていくものです。

あなたは、どういう関係をもとうとしているのでしょうか。


コミュニケーションの「問題」は、あなたが口では、一体感を持ちたいと言いながら、

実際には、少しでも「違い」をつくろうと、夢中になってしまっていることにあります。


たいせつなのは、あなたがどうしたいのかということ。

いま、目の前にいる人と、どういう関係をつくりたいのかということ。


あなたがつくりたかったのは、こういうことですか?

「少しでも相手に勝っていたい!」

コミュニケーションは、いつのまにか、わたしたちの競争の舞台になっています。

でも、忘れないで。

コミュニケーションは、いつも「受け入れ」によって完了します。

人は、「受け入れ」によって動きます。


「受け入れ」とは、相手を好きになることとは違います。


もし、どうしても好きになれない人がいるとしたら、

まず、その人を好きになれないじぶん自身を受け入れること。


あなたが相手の人を受け入れている度合いは、

あなたがじぶんのことを受け入れている度合いに、完全に一致します。


相手を受け入れるには、相手をよく聴くこと。

「この気もち、伝えたい」

「でも、じぶんの言うことなんて聞かれない」

そう思ってしまっているのは、あなただけではないのですから。


コミュニケーションの能力を、話す能力だと思っている限り、

相手との間に、一体感をもつことはできないでしょう。


コミュニケーションの能力は、相手に話させる能力です。

相手に話させて、それを聴く能力です。


相手の話を最後まで、口でも頭の中でも、批判したり、否定したり、

自分と比較したりしないで、聴いていく能力です。


聴いてくれる人の前では、受け入れる準備のある人の前では、

だれでも少しずつ、話し出すものです。

たとえ、とりにくいボールでも、どんなに弱いボールでも、

あなたが、一生懸命拾っていけば…。


待っているだけでは、ボールはうまく受けとれない。

コミュニケーションも同じです。


もし、あなたが,ほんとうに受け入れていこうと思うのなら、

何か受け入れられるものはないかと、一歩踏みだし、からだの全部をつかって、

じぶんから手をさしのべていくことです。

どんなにむずかしいボールも、しずかになめらかに、

受けとめることができるでしょう。


相手を受け入れることを、なんでも相手の言うとおりにすること、

相手に賛成することだと思っているとしたら、受け入れることはむずかしい。

よーく聴いて、相手の言いたいことをそのまんまに理解すること。

それが、「受け入れ」です。


お互いの中に、同じ意味とイメージを共有すること、

それが、「受け入れ」です。

「受け入れ」があれば、違う考え、違う趣味、違う感じ方をもっていたとしても、いっしょにいれます。


ひとつ、受け入れが起こると、ひとつ、コミュニケーションが完了します。

ひとつ、コミュニケーションが完了すると、少し安心します。

そうやって、安心感が深まるたびに、わたしたちは、行動的になります。

受け入れられることや人が、ひろがります。


最初はだれでも緊張します。

人が向かい合えば、必ず緊張が生まれます。


それは問題ではありません。

問題は、あなたがそれを隠そうとすること。


ほんとうは、うまく投げられるか心配なのに、平気なふりをしていること。

ほんとうは、うまく受けとめられるか心配なのに、平気なふりをしていること。

ほんとうは、運動神経がにぶいのがばれたらどうしようと思っているのに、平気なふりをしていること。


平気なふりをやめたとき、あなたはじぶんを受け入れたことになります。

平気なふりをやめたとき、ほんとうのコミュニケーションがはじまります。


「この気もち、伝えたい」


あなたがそう思ったなら、できるだけ、受けとりやすいボールを投げること。

受け入れの準備のない人もじゅうぶん受けとれるボールを投げること。

ボール投げになれない人には、速球や変化球は受けとりたくても無理なのだから。


わたしたちは、コミュニケーションによって生きています。

あなたのいま目の前にいる人とのコミュニケーションが変わっていくとき、

まわりの人すべて

―先生も、お母さんも、お父さんも、親友も、恋人も、親戚のおばさんも、上司も、部下も―

とのかかわりかたが変わっていくでしょう。


仕事へのかかわりも、人生へのかかわりも、変わっていくでしょう。

そして、あなた自身とのかかわりも、変わっていくことでしょう。


 
  きみの気もち、聞いてみたい


それがコミュニケーションのはじまりです





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