鶏が先か卵が先かという命題に、鶏が先らしいと、英国の科学者チームが結論を出したそうな。
では、その鶏は卵から生まれたのでは?という疑問は意地悪なのかな。
というか、この研究は、Ovocledidin-17(OC-17)という蛋白質が、卵の殻の素になる炭酸カルシウムの方解石結晶の生成を促進するっていうだけのことなのだと思う。
鶏の雌は方解石結晶を作る能力が他の動物に比べて極めて早いから、鶏がいないと卵が出来ない。だから鶏が卵より先って、論理としてはかなり乱暴だ。
理屈っぽいところを突かれたので、ちょっと物申すよ。
理屈っぽいの嫌いな人は読まないでね。
これはそもそも原因(陰)と結果(陽)の陰陽論の話。
鶏と卵は、生物の個体としてみれば、卵が原因(先)で鶏が結果(後)。
種として見れば、子供は種の目的なわけだから、子が結果。 つまり鶏が先で卵が後。
生物の個体としてみるか、社会的生物的方向性で見るかで、陰陽(原因と結果)は変わってくるのだから、土俵を整理しないで検討する意味がない。
一つの視野で見えないことを、多角的に見ることで、本質を浮き上がらせて理解させるのが、本来の科学の役割なのだと思う。
そもそも問題が派生したのと、同じ次元の視野から、その問題を解決することはできないのだから、理解も視野も飛躍しないもので一方的な結論を出して、独善的なつまらないパワーゲームにしないで欲しい。
あれ、なんかいらついてるのかな今夜は。
些細なことなのに、結論を一方的に押し付けられることに対して、妙な抵抗があったみたい。
というかそもそも議論好きなので、つい反駁したくなったのか。
闘って打ち倒さないと気がすまないなら、それもパワーゲームだなぁ。
陰陽を極(きょく)ではなくて、玉(ぎょく)にしたら、調和が実現するのかな。
そういうのなんていうんだっけ、えっとアウフヘーベン?
あ、そうそう。 止揚(独: aufheben アウフヘーベン)。
二つの極を統合して、より高い方向性と結果へと昇華していくこと。
そうすると、それぞれの一つの極への、拘りや執着から離れていくことは可能なんだろうね。
こだわってるとしたら満たされないエゴの部分であって、それは本来の問題そのものとは無関係なもの。
でもなかなかそれを切り離して、直視できないから、人のせいにしてばかりなのかな。
問答形式の疑問昇華タイム久しぶりですな。
長くなっちゃうけど、ちょっとやってみますか。
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観想(テオリア)10
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なんでいつまでたってもエゴに振り回され続けるのですか?
”なんでかな” (※ ” ” 部分はハイアーセルフの言葉)
どうやったら、このことをいい加減学べるのか教えてください。
”まず、正直になることだね。あなたの中のありのままをはっきりと見ない限り、それは手放すことはできない”
なにを見たらいいんですか?
”あなたが見たくないものだよ。あなたの中にある、見ると不快になるものだ。
大切なアラート(警報)ほど不快さを伴なう。痛みや不快さは必要な機能なのだ。
もしそれが心地よかったら放置して、誰もそれを改めようとは思わないだろう”
それは見たくないですね。
”そうだろうね。だから、あなたは人のせいにする。
目に映るものが不快なら、その対象が悪いのだと決め付ける。
それを映す自分の目が汚れているのでは?とは顧みない。
あなたは、見たもの、体験したもの全てを、受け取っているわけではないのだよ。
必ずその体験を、自分の世界に合うように切り取って受け取っている。
あなたの中に同じものがあるとき、それは響き合う。
体験の中に不快が伴なうなら、あなたの中にある同質の不快さが共鳴しているからだ。
外に見える体験は、あなたの内側の世界を知るための鏡でしかない。
そうやって自分を探求しながら、一つずつ手放していくのだよ”
誰かの傲慢が気に入らないなら、あなたの中にも同じものがあるからだ。
誰かが、自分を縛り付けるように思うのなら、あなたもまた誰かを同じように縛り付けている。
あなたの内なる世界のルールが、あなたの外に感じられるルールになるだろう。
真の意味では他者などいない。
そこに意味を与えるのは常にあなただ。
ただの棒が鉄格子に見えるのは、あなたがそこに役割を与えたからだ。
出られないのではなく、出られない理由を設けるから、出ない理由になる。
人生が、生まれる前の空(くう)から、死後の空への旅だとしたら、その間にあるものに、どうしていちいち理由が必要なのだね。
本当にあなたが選び、創造し続けるなら、どのようにでも生きられる。
だから、あなたがしない理由、出来ない理由、あらゆる自分のせいではないという言い訳には、あなたを自ら縛る以上の意味はない。
本当に自分がどのように生きたいのか、何を選びたいのかをよく受け取ってごらん。
そこにあるものを本当に見極め、きちんと受け取り、選び、宣言した時、あなたは本当にそうなるだろう。
大切なのは、あなたが誰であるのかを知ることだ。
今、あなたがどうであるかではない。
本当のあなたはどうであるかを思い出すことだ。
今のあなたは、あなたの持てる可能性の最大の表現であるか。
あなたは本当はどうありたかったのか。
そんなエゴの欲求ばかりを追いかけるあなたで在り続けることが、あなたの本当の願いなのか?
エゴは不安や恐れを動機にあなたを動かす。
常に足りない、必要だ、という。
乾き続けることで、自らが独自の分離した存在であることを確認することこそ、エゴの願いだ。
だからあなたの感情の浮き沈み、プラスマイナスにはエゴは興味がない。
ただ、自分という枠組み(エゴ)が特別で、切り離されていて、全体から分離しているという感覚を強化することだけが、エゴの願いだ。
従って、恐れと渇望はもっとも有効に作用するエゴのツールになる。
真の意味では、あなたは切り離されていることなどあり得ない。
あなたの存在はスピリットであり、それは常に宇宙と一体である。
たとえば、あなたが一本の大樹であるとき、あなたは独立しているが、その根は大地に根ざし、大いなる水の循環の一部であり、天と地を結ぶ一つのエネルギーの架け橋である。
人もまた、同じように生命の役割を持つ、宇宙の一部だ。
エゴがあなたを支配しているとき、あなたは大樹の種のようになっている。
エゴは種の殻にすぎない。これは前回のときにも伝えた。
殻を強化し、種の可能性を守ることは、ある時期までは必要だが、あなたが自らの可能性に気付き、それを表現しようとするなら、いつかは種は殻を脱がなくてはならない。
その時期をいつ選ぶかが、あなたが今生どう生きるのかと、あなた自身の在り方の質を決める。
エゴを手放すのは通常容易ではない。
常に醒めている意識と、公平で偏りのない精神と、強い意思が必要だ。
手放すというのは手放した振りをして我慢するということではない。
文字通り、ただ自分を手放し(Let Go)、超えて行くことだ。
蛹が蝶に変容するように、もう決して同じところには戻らないという、決定的な自己受容と信頼だ。
一度、それを受け入れたなら、そこに大きな違いが生まれる。
それが分からないうちは、自分自身を顧みる前に、他者を責めるだろう。
あなたの本当の望み、魂の願いはなんなのか、もう一度思い出して、紙に書き出すといい。
それは必ず、今ここにあり、あなたのスピリットの真なる喜びに根ざしている。
もう一度、そこからエゴを超えていきなさい。
あなたが望む最良の姿、最高の自己であることを選びなさい。
エゴの望む喜びよりも、もっと大きな喜びを求めなさい。
その為に、自分自身とより多く対話しなさい。
いずれ、エゴの望むよりも大きな喜びに気がついたなら、それを選びなさい。
待っているよ。
ありがとう ”
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