Amazing Grace







一日何かを読んでいた日。



起きるまで夢だと気が付かなかった、とても居心地のいい世界の明晰夢から醒めて、こちらの世界を生きている自分の現実に戻された。そんな朝の始まり。



そういえば昨夜は自分の中で、なんだかとても腑に落ちる気付きを得た日だった。

今朝あの世界に夢でつながっていたのは、ひょっとしたらそれが関係していたのかもしれない。



それはなんか当たり前すぎて、わざわざ口に出す必要もないようなものだったのだけど、多分僕が受け取る必要のあるものの中でも、とても重要なものなのだと思う。

私が揺れて振り回されてきた自分の中の感情や、葛藤や傾向(パターン)みたいなものが、なぜそこに存在していたのか唐突に分かったのだ。

言葉にすると薄れてしまう気がしてうまく説明しづらい上、あまりに個人の感覚に依存する体感なので、おそらく十分な理解は得られないかもしれないが、敢えて書いてみる。



それはすべてはこの魂があの源につながっている自分として、同時にここに在ることに気付くために存在したブレ(焦点を合わせるまでの)というか揺らぎ(一時的な忘却と離脱)のようなもので、感情体やメンタル体等、肉体により近い層の感受性に引きずられずに、同時にここに、より拡がった存在として、どれだけ自分として深く在るあり方を選べるかということだったのだ。

それは魂や精神の成長や自立と関係している。



あまりにも幼い自身の感情を、どうにも持て余してしまうときに、それがどのようにすれば満たされるのかにきちんと向き合うと、必要のあるプロセスを得て、人は変わり、成長していく。

それはスピリットの成長にもきっと同じことなのだろうと感じる。それをありのまま欲し、ただ受け止めていけばいいのだと分かった。

きちんと愛されていることを受け止められた子供が、もう甘える必要のない自信を得て、自然と自立していくように、スピリットはありのままを受け止められることを望んでいる。

その人と人、人と宇宙の無条件の交流を、何と呼んでも構わないが、きっとそれが愛なのだろうと思う。



夜遅く終電で帰ってきて、なんだか夕涼みしたくなって一つ前の駅で降りて、まだ若い三日月と、明るく透き通った冬の一等星を見上げながらてくてく歩いていたら、とても澄んだ、あの懐かしい感情がふいにやってきた。

肌寒いけれど清々しい風が頬に触れ、吹き抜けて、とてもいい夜だと思った。

秋の夜には時折、こういう心を清ますような風が触れる。

それは決まって、夜気の底でたった一人で居るときにだけ来るのだ。



それを味わっていたら、それに侵され揺さぶられることのない、自分の芯のスピリットの存在と、それに連なる大きな源を意識した。

個でありながら全である事は矛盾しない。それは個が全の一部だとか、全は個の集合だとかいう事ではなく、個と全は「同時」に、そして矛盾せず確かに今ここにある。

これを保ち、かつ同時に個の感じている喜びと意思、願い、愛、情熱に従って、より純粋に生きることが、己の魂をありのまま生き、表現することだ。

自分の中の矛盾や不理解や稚拙を含めて、少しずつでも、もうそれを認めていかなければならない。いずれにせよ今は他の道は見つからない。



スタートには立てたか?間に合ったのか?

空を見上げても、たくさんの出会いと計らい、その恵みと恩寵にただ感謝するほかない。



Amazing Grace.(いと深き、神の恩寵)







そんなわけで、内観の夜と夢の朝を越えた、オフの一日。

どこに出るともなく、ほとんど動くこともなく、ひたすら活字を読んだ日。

漫画、雑誌、実用書、ネット私小説もろもろ5冊分くらい吸収し、感動を蓄積し、修養する。いずれも良作、名作。とても満足した。



そして先ほど、先日書いたメモ日記「10/22 葛藤は何のためにあるのか」に対して、昨年ご縁を頂いたあるクライアントの方から、とても詳細なご自身の理解とシェアを頂いた。

6000字を越える、とても的を得たテキスト。こちらもすごい文才。



こんな私の何かでも、誰かの中にそれぞれの源につながった気付きを促せるものがあるなら、日々ふいに降りてきたりする些細な気付きでも、なるべくアウトプットしていきたいなという励みになる。感謝です。



先日シャワーを浴びてたら降りてきたメモがあったので、せっかくなので載せておくことにする。

なぜかインスピレーションはシャワー中に降りてくることが多い。

記憶や意識の情報は、エネルギーボディの層に蓄積されたり送受信されたりするから、それが水浴びで禊がれて余分がクリアになって、空いたところに入って来やすいのか?興味深い。





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神というものがあるとしたら、なぜ世界の悪や悲惨な現象を許すのかということについて降りてきた気付き。



神(宇宙)の愛は無条件である。

無条件であるということはジャッジや判断がない。

したがって、神というものがあるとしたら、それは現象の善悪を問わない。



個々のスピリットは、その存在のあらゆる側面を体験したいという願いに基づいて生命として生まれてくる。

したがって神の愛は、その存在や現象のあらゆる側面が体現されることを許すという意味でも、無条件の愛である。



重要なのは、個々のスピリットがあらゆる可能性の選択を許された状況の中で、それぞれの意思として何を選ぶかである。

その結果の集積が、我々の体験する世界のあり方のベースを構築している。



故に、世界がどうあるか、私達が何を体験するかは、それぞれ自身の思考と意思と選択の結果である。

そしてそれが、選択の結果である以上、我々はそれぞれの体験する世界も、状況として現れる世界も創造することができる。



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なるほどねぇ。だから自覚的に目醒めて生きるということが、これほど重要だと説かれてきたのね。

この世界のおかれている現在の状態からすればなおさらか。



別に神だのなんだのいつも考えているわけではないけど、他にそれを表す適切な言葉がないし、普遍的なのでつい使ってしまう。もともと宗教的なドグマは持っていない。

たくさんのものの見方があるなら、それぞれ好みのものを使えばいい。

それでも宇宙には人の二元性の持つマインドを越えた理解の仕方や理が、確かにあるのだと思う。

それを解き明かして受け取りたくて、こんなことを20年もやっている。



本当のことと、それを完全には理解し得ないことで生まれるバランスが、人間の生を面白くしているのは確かだろうなぁ。

それでも私は我侭なので、すべて知った上で選びたいのだ。



だんだん生きるって楽しいと思えるようになってきた。

こんなことを考えていることの利点は、日々に埋没して巻き込まれそうになる俗事の中にあっても、人間で居られることの、その体験の貴重さを忘れず思い出せることだ。

見落としがちな日々の中の感動を、一つとして取りこぼすことなく受け取ることが出来たら、この宇宙には、感謝や感動なんて言葉では到底足らない豊かさが溢れている。

ただそれを忘れないための、つまらない理屈なんだ。



だとしたら理屈がいらなくなったときに、本当に受け取れるのかな。

それも楽しみだ。





ありがとう。















 

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