そして時は動き出す







気が付けば桜の季節も過ぎて、遅かった春はもう新緑を迎えつつある。

しばらく書くという作業から遠ざかって、最近はもっぱら、歌うとか作るとかに興じてた。

(写真は今盛りの近所の八重桜)



なんかここ数日もやもやしていて、そういえば最近文章を書いていないなと思い至った。今日はちょっと出てくるままに書いてみる。



書きたい書きたいと言いながら最近何も書いていないので、だんだん宇宙からプレッシャーが掛かってきたんだろうね。

そういうときは内省する機会と、テーマと、それにまつわる感情と、まとめる時間と、必要なものが全て用意される。

ようするに暇になる。それでたくさん考える。

でも最低限生活を維持するだけの収入は入る。(それをちょうど与えてくれるのは見事だけど)



いかんいかん、このお膳立てで何もしないでいたら本当に仕事干されちまうぜ。

お前は言葉屋で何かを為したいんだろ、しっかりしろよっていうことなんだろうな。ラジャ(了解)

幸いにも暇になると、フラストレーションや感情やなんやで心的内圧は高まる。

何かを表現したくなるのはそういう時。

それが出きって、濾過されて残った透明な言葉を集めて束ねたら、多分自分の作りたいものになる。

少しずつ、少しずつ。





実は前回の新月前後に大きな気付きと手放しがあった。

ちょうどアースデーの直前辺り。

おかげで野原の真ん中で気持ちよく歌ってこれたわけだけど。

野外ライブは開放的で素敵だった。音楽って素晴らしい)



眠れない夜中には、時々ソファーに座って瞑想する。

その時かかっている音楽はわりと重要で、それが気付きの質を決めることは多い。

その時は、”さよならを知るための旅”がテーマの映画のサントラだった。



18年ものの囚われを自分の中に発見して、とても懐かしく、そして未だそれがそこにあったことに少なからず驚き、感謝し、愛し、手放すという作業をした。

それは作業というよりは、大切なものを見送るための、自分のためだけの儀式だったのだけど。

自分の中に止まっていた時を動かすための、とても大切で神聖な時間だった。



「時」は「解き」。それはどんなに留めておきたくても、いつか動き出さなければならない。

ちょうど、古い書類や本類をいっせいに整理した直後で、思えばそれも必然だった。



凍っていた時間を動かすということ。それは想像以上にとても大切なこと。

ヒーリングやセラピーの世界は、その閉じ込められた「時」を扱う分野だ。

正確には身体や、生命エネルギー場の中に閉じ込められた「時」、つまりその時の思いや、感情のエネルギーのことだけれど。



「科学は空間を扱い、宗教は時間を扱う」

先日書類整理するときに処分した、古い大学時代のルーズリーフにメモされた言葉。(宗教科専攻だったので)

そして空間と時間は同じ一つの世界の性質を表す言葉だ。

どちらも一方だけでは存在できない。同じ宇宙の別の側面だから。



調和して、全てのレベルで一致して生きるということは、そこに蓋をされたものがあってはいけないのだ。

私達はどんなときも今を生きなければならない。

そうでなければ、今ここに生きるということのリアリティーが失われる。

それは本当に、生きるというこの貴重な体験の大きな損失なのだ。



目を閉じて何も見ず、感じようとしなくても、日常は過ぎていく。

そして実際に目覚めてみるまでは、自分が生きていた世界が、自分の作り上げたバーチャルリアリティーだったということには気が付かない。



動き出す許可を与えるまで、その閉じ込められたものはずっとそこにある。

つまり自分が、自分の意思で動き出すことを決めるまで。



神、宇宙(なんと呼んでもいいけど)が人に与えた自由意志とは、何かをするかしないかの自由ではない。

その自分自身の真実を、いつ体験するのかという自由だ。



だから必ずそれに向き合う時が来る。

時が傷を癒し、自分が向き合うことが出来るときまで、宇宙は待ってくれる。

それはきっと、宇宙が与えてくれる優しさなんだと思う。





僕の好きな映画『ドンファン(主演:ジョニー・デップ)の中に、出てくる好きな言葉がある。





『人生で大切な問題は4つしかない。

 神聖とは何か

 魂とは何か

 命の意味は

 死の意味は

 答えはすべて同じ。「愛だ」』




愛なんだよきっと。

詰まるところ、結局どの道を辿ってもそこに行き着いてしまうんだ。

そうでない言葉をどんなに探してみても、どんな言い訳を見つけようとしても、その感情と体験を表す言葉は一つしかない。



凍っていた自分の時を動かすことを決めたとき、そこに生まれたものはただ愛と感謝だった。



本当に一つの体験の輪が閉じるとき、そこには膨大な時間や想いやエネルギーが存在し、それが昇華して一なる根源に還るときに、とても美しいエネルギーに変わる。

それは純粋な混じり気のない、宇宙に起こる出来事の全てを構成している

源とでも言うべき何かだ。

だから何かを手放すとき、そこに愛がなければそれは本当に手放したことにはならない。それが真実だと思う。



ある出来事は、それに関わった全ての魂たちが、創り上げた壮大な物語。

それを体験させてもらったんだよ。ただ私一人だけのために。

それらの無数の物語が織り成して、宇宙に遍くたくさんの気持ちや体験を生み出して、紡いで与え合って、それが愛でなくてなんなのだ。



たとえその時はそう思えないものでも、それを手放し、体験の輪を閉じるときにはすべて愛になる。

そう考えたら、すべてが温かで、愛おしいものになる。

たとえ時間は掛かっても、そう思えるために生きるのなら悪くない。



だから、もっと自由に生きていいんじゃないかなと思う。

自分の可能性を押し込めずに、最大限に、愛を持って表現する方法があるはずだ。



閉じ込めているのも、動き出すのも、自分で決めることだから。

理由はいつも外側ではなく内側にあるものだから。



本当の魂の形を、自由に描いて、その通りに生きていい。

それが容易だとは思わないけれど、もうチャレンジしない生き方には意味がないから。



そんなことを思った夜。





ありがとう。









・~・~・~・~・~





 ~ネルソン・マンデラのスピーチ~ 





私達のもっとも恐れていることは、

自分の力のなさではありません。



私達がもっとも恐れているのは、

自分に計り知れないほどの力があるということなのです。



私達をもっとも怯えさせているのは、

私達の中の闇ではなく、私達の光なのです。



私達は自問自答します。



「自分が、卓越して優れ、魅力に溢れ、才能があり、素晴らしいなんてことがあるだろうか?」と。



でも、そうでないあなたとは、一体何者なのでしょうか?



あなたは神の子なのです。

あなたが取るに足らないものとして謙遜していることは

この世界のためにはなりません。



周りの人が不安がらないように縮こまっていることは、

全く賢明ではないのです。



私達は誰もが輝くためにいるのです、子供達のように。



私達は内なる神の栄光を顕現するために生まれてきたのです。



それは私達の何人かにしかないものではありません。

誰の中にもあるのです。



そして、私達が自分に輝くことを許すとき、

意識していなくても、それが他の人達にも同じように輝くことを許していくのです。



私達が自分の恐れから自由になるとき、

私達の存在そのものが、自然に他の人達も自由にするのです。













ルイ・アームストロング~What a Wonderful World



























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