うぉぉ。すごい! 分かっちゃった。
なんてことだ、うまく言葉に出来ない。
あぁ、どうしよう。
僕は今まで、世界がそこに「ある」って本当には知らなかったんだ。
自分の「内側」だと思っている場所のスクリーンに、「世界」だと思っている「外側」の何かを映して、それを「経験」や「認識」って呼んでいただけなんだ。
「内側」なんて最初からないんだ!! だから「外側」もない。
あぁ、そうか。だから「直接体験」ってこういうことだ。聞いたことあるぞそれ。
つまり自分の「中」とか「内側」とか呼んでいるものって、ただの思考なんだ。
世界には「内」も「外」もないとしたら、一体どうしたらいいんだ。
今までの認識パターンの処理ルートから外れすぎていて、理解が追い付かない。
あぁ、なるほど。だからただ「ある」のか。ただあればいいんだ。
「認識」する必要はなくて、ただ「体験」すれば、感じればいいんだ。
こりゃすげぇ。世界がまるで違うものに見える。
「生命」とか「物質」とかの境目もないんだ。
全部同じもので出来ている、振動と在り方が違うだけ。
全部最初からただ「いのちのそれぞれのありかた」の顕れなんだ。
どうしよう。世界のすべてが愛おしく見えるよ。
なんて世界は美しいんだ。私は最初からこんなところにいたのか。知らなかった。
意味もなく、ありてあるすべてのものに向けて、愛していると叫びたい。
「愛」でないものはないんだ。ぜんぶそれの別な形。
だから「意味」なんてくっつける必要も、用意する必要もないんだよ。
ただここにいればいいんだよ。考えるな、感じろ!俺。ただ、世界は美しい。
よく見ておけ、これがお前のいる本当の「世界」だ。
今この瞬間、この位置に、ただ「ある」ことを選択しているだけなんだ。
あぁもう!分かっちゃった人達が、どこか頭おかしい人に見える理由が分かった。
でも、醒めているって実はこういうことなんだ。
分かったとしても、実は何も変わらない。知ったまま生きていける。
でも世界に対する見方は、多分永久に変わる。疑いようがない。
ああ、うまく言えない。
あなた(自分)だと思っている場所、あなただと認識している何かは最初からないんだ。
すべては呼吸し、振動し、それぞれの形をとる、一つだった何かの色々な様相。
粒だったり、形だったり、スペースだったりするけど、全部一つのものの別な姿。
もう世界が曼陀羅のようだ。見えるものは見えないもので出来ている。
このただの壁に見える部屋の壁紙さえ、明滅する粒子の結びつきであってただの愛の形の一つ。
あなたが「いた」ことはかつて一度もない。
そして同時にあなたがいなかったことはなく、いなかった場所もない。
すべては「認識」と「体験」があっただけ。
移り変わる一なるもののそれぞれの形。
だから思考はあなたではない。
思考はただのスクリーンに過ぎない。そこには実体はなく、本質もない。
空の空、一切は空。
・~・~・~・~・~
いやぁ、すごい理解と体験だった。
興奮にまかせて、出てくるまま書いちゃったので、乱文失礼。
なんでこんなことになったかっていうと、今朝起きて、瞑想していたら活元運動が始まったの。
活元運動っていうのは、思考を一切介在させずに、身体の叡智にしたがって、身体が動きたいように動かしていくことで生まれる、自律的な調整運動のこと。寝がえりとかあくびも活元運動の一種。
僕の変わり目の時には、よく大きな活元が現れるのだけど。
瞑想してたら、お、何か来たぞと思って、体が動き出したので、それに乗っていけるところまでやろうって感じでどんどん動くに任せてた。
一時間くらいやってたかな。そしたら何か調ったらしく、身体の真ん中にまっすぐな軸が立って、いい感じに座れたので、そのまま瞑想に移行することにした。
で、瞑想してると、体の中とか「内側」に目を向けるのだけど、そのときは体の中に大きなスペースを感じていたの。
そのスペースは体の外側の部屋の空間と、それを取り巻いて広がっていく「外側」の世界のすべてに広がっていくように感じていた。
で、それをただ「観て」いたら気がついちゃったの。
この広がりは、僕が「外側」にあるスペースにつながって、ただそれを感じているだけなんじゃないかな、と。
「内側」だと思っているものって、「外側」のすべてを感じ取って、ただ映し取っているだけなんだな、と。
ただのスクリーンなんだ、これ。
「内側」の空間と、「外側」の空間って実は同じものだ。本当は内も外もないんだ。
あれ、じゃぁ「私」ってなんだ?境界がなければ「私」もいないじゃん。
スクリーンに映っているものを見ているうちは、私は世界を本当には見ていなくて、そしてそれを思考と呼ぶんだ。
あとはもう理解が芋蔓式に紐解けていって、洪水みたいになった。
神は無限の観点(Viewing point)を持ち、人は無限の見地(Point of view)を持つ。
無限の観点を持つということは、神はどこにでもいる。
だから多分、僕たちがいる白い紙(空間)が神で、そこに描かれている黒い点(見地)が僕たち。
その黒い点をのぞき穴にして見ているのが、僕らの意識。のぞいているのは神自身。
空間っていうのが多分、カギなんだと思う。
空っていうのはすべてで、本質。だから、空間を感じることが大切。
神社でも教会でも山の聖域でも、聖なる場所は必ず、その奥の無限の空間の広がりに繋がれるようにデザインされている。
見えるものを支えているのは、その後ろ側に広がる見えないもののすべて。空間。
それがこの世界の秘密。
もう、どれだけ言葉にしても足りない。
この体験的な理解をどうやったら伝えられるのかって考えてみたら、やっぱり体験してもらうしかないんだと分かった。
昔の人もきっと、言葉にならないものを、言葉にならない密のまま、エッセンスを伝えようとしたんだろう。
だから密なる教え密教とか、神秘主義とかが生まれてきたんだなと思う。
ああいうのはよくできてるなと思うけど、きっとそうするしか方法がなかったんだろうな。
私的には、世界の真理の探究以上におもしろいことなんてあるのかなと思ってるけど、こういうのもっと分かりやすく、出来るだけやさしく深くおもしろく伝えるにはどうしたらいいのかなぁ。
実はこういう分かっちゃった体験って初めてじゃなくて、度々訪れてきた。
今回のは本当に圧倒的で疑いようがなかったけど。
そういう、波間の息継ぎのように、水の中から空の世界に顔を出して、その度に太陽の輝きを直接見るみたいなことって、時々おこる。
多分理解していたはずのことを忘れてまた寝そうなときに、文字通り目覚し的に叩き起こされる。
魂の目覚し時計には、スヌーズ機能がついているらしい。
以前、圧倒的な叡智みたいなところに一体化したと感じたとき、どうしたらこの理解を分かち合うことが出来ますかって、その叡智に訊いてみたことがある。
そうしたら特に何もする必要はないって返ってきた。
ただ「ある」こと。「ある」の質を深めていくことが大事みたい。
思考を通してじゃなく、本当に醒めたまま、あなたが世界を見て、触れて、生きていること。
そうすれば、自然にみんな目が覚めてくるよって伝えられた。
同じ部屋で皆寝ていて、一人が起きてもぞもぞし始めたら、だんだんみんな起きてくるでしょって。
起きたくない人には、部屋でもぞもぞされると最初は煩くて不快に感じられるかもしれないけど、いずれみんな目を覚まして、それぞれの魂の形を体験し始める。
地球は転換点を超えて、窓の外に日は昇っちゃったから、部屋はだんだん明るくなってくるし、周りがみんな起きてきたら、目を覚まさざるを得ない。
だから、自分は自分らしく、ただあればいい。
無理せずに、自然体でいよう。
心の感じている叡智に沿って、ただそれにしたがって進んでいけばいい。
求めらるものと、与えていきたいことの間で、あるがまま愛していこう。
あとは人間らしくばたばたしながら、もう少しこの世界を味わっていよう。
んー、結局それだけだな。
そうなんだ、結局観点が変わってもありかたってのはそんなに変わらない。
依然として、人には無限の見地を持つことが許されていて、そのどちら側にもいることができる。
生きることって、本当に壮大なギフトだなぁ。
返せないものを受け取るとき、感謝しか出てこない。
ありがたい。みんな愛してる。
ありがとう。
今日はここまで。
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