白山登山記









ねぇ、ぼくらのいる世界は なんて美しいんだろうね。

それを思い出すために、人は時々雲の上まで登ろうとするのかもしれないね。







白山に登ってきました。

すごい旅だった。



金沢に着いたら雨が降ってくるし、一緒に行くはずだった人はどんどん減っていくし、一時はどうなることかと思ったけど、すべては辻褄が合うように導かれている。



さすがに当日雨じゃ登り辛いよねってことで、金沢に着いて早々、白山比咩神社までご挨拶に行った。

北陸鎮護の大社 白山本宮 加賀一ノ宮。三千以上ある白山神社の総本宮。

何年か前に金沢にイベントに呼ばれて来たことがあって、その時以来。

菊理媛尊(ククリヒメノミコト)を祭るこの神社は、なにか特別なシンパシーがあって、すごく居心地がよくて好きな場所。



神社に行って、久しぶりにその前に立って、ククリ姫とお話した。

あんまり外からは分からないようにしてたけど、心は大好きーってはしゃぐ子供みたいになっていた。

春風みたいに鮮やかで華やかな空気で迎えてもらえて、あぁこれはウェルカムなんだな、大丈夫だなって確信する。

ひとしきり心の抱擁を交わして、よろしくおねがいしますねって挨拶したら

「山頂で待ってます」って一言返ってきて、面会終わり みたいな空気になった。

山頂って何のこと?とは思ったけど、とりあえず登って来いっていうことは分かった。



そのままゲストハウスに向かい、せっかくなので金沢の町を少し歩き、夜にヒーラーの子の家に人が集まるというので会いに行く。

ここ多分、あとでつながるご縁の伏線だなって分かるようになってきた。

その人とはその時あまり話せなかったけど、きっといずれ分かることだから今はそのまま置いておくことにして帰る。



ゲストハウスに戻っていざ寝るぞって段になって、いよいよドバァーっと雨がさらに降ってきた。

これもう無理なんじゃないの?っていうくらい降ってきて、当初10人以上いた参加予定者が結局当日朝には5人になっていた。



根がものぐさなので実際自分も心折れかける。

でもまぁいい、こういうのは慣れてる。

ウェルカムな空気にそぐわないこの雨は、選別みたいなものでしょう?

本気で来たい意思のある者だけが来いってことでしょう?

そのやり方はよく知ってる。

本当に行っちゃいけない時は、もっと分かりやすくストップしてくれる。

だから本当に行くべき人だけが導かれる。



来いって言われたからね。きっとちゃんとサポートしてくれるよね。頼むよ。

祈るような気持ちで、実際祈りながら山のふもとまで行き、入り口に着いた。



登山口の鳥居を見つめても、止めろっていう感じのサインは来なかったので、行けるところまで行くつもりで踏み出す。



あとはもう粛々と、聖者の行進のように、ただ霧と雨の山を登る。登る。ひたすら登る。

前日に千円で買った雨合羽はもうほとんど役に立たないから、上はTシャツだけ。

同じく500円で買った、濡れてもすぐ乾く化繊のTシャツはかなり使えた。



こんなに何時間も雨を浴び続けたのは初めてなんじゃないかってくらい浴びて、途中から濡れずに行くのは諦めてサレンダーしたら、いろいろ軽やかになった。あぁ、禊ぎだったんだなこれはと悟った。



頂上が近づくに連れて雨が小降りになり、高山限界を超えて高い木が見当たらなくなった辺りからとても快適になる。

ようやく宿泊予定の山小屋が見えて、ついに辿り着いた。翌朝はそこから出て頂上の日の出を目指す。



夕飯を17時に食べ、しばらくすると眠くなる。

翌朝午前3時に起床して出立予定なので、一緒に来た仲間はみんな先に寝てた。

自分はなんとなくもったいなくて起きていたら、19時前くらいに空が急に晴れだした。



外に飛び出したら、雲の覆われていた白山の頂上が見えた!

振り返ると、圧倒的な雲海の上に、信じられないくらい美しい金色の空が広がっていた。

これが地上の景色なんだろうか。それは圧倒的で、どうしていいか分からないくらい心の奥にまっすぐ入りこんできた。



空の真ん中へと続く、この本当に深く青いグラデーションは、きっと宇宙の真ん中までつながっているのだろう。

眼下にどこまでも広がる雲海を見渡すように、一つだけそびえるこの山は、なんだか本当に天上の世界を想起させた。



我に返って、すでに寝ていた仲間たちを起こし、連れて来る。

これを分かち合うために、ぼくらは登ってきたのだ。



誰もがそこに立ち、この世界を眺めていた。

言葉はとても少なかった。



世界はとても大きくて、僕はとても小さく、そしてその小ささになぜかとても安心した。

細胞が震えて、この透明な空と同じ透明な空気が自分の内側を満たしていた。

外と内の密度がつながり、そのとき多分、僕は宇宙と同じ静けさを見ていた。

静けさは完全な調和とともに意識を満たして、幸福とか愛とか、そう呼ばれている純粋な何かが確かにそこにはあった。

それはきっと、こんなにも透明で静かなものなのだと思う。















寒さで心の集中が切れるまで、ぼくらはそこにいた。

山小屋の部屋には電灯のようなものはほとんどないので、その後は出来るだけ早く寝る。



不意に夜中に目が覚めた。

まだ2時だった。起床までまだ少し時間があったが、少し外に出たくなって出る。



誰も見てはいなかったのに、圧倒的な夕暮れと同じように、星の空が広がっていた。

透き通るように静かで冷たくて、降るような、鳴る音の聞こえてきそうな銀河。

抱えきれずに時々星がこぼれて流れていた。

プレアデスの淡い輝きを見ていたら、なぜか心が安らいだ。



部屋に戻ってもまだ30分はあったので、寝ないで瞑想することにする。

前日無理をして登ってきたので、偏頭痛があったのだがまだ治っていなかった。

このままだと今日の行程はもたないので、痛みと身体のバランスに対してただ瞑想していた。

心が静かだったので、自分の体の中で、何がどうなってなぜ痛みになっているかがよく見えた。

一つ一つの固まった筋肉や組織に意識を向けて、それが解かれていくのを見ていた。

しばらくすると、ほとんど痛みが抜けている。

偏頭痛が出ると歩くのもしんどく死活問題だったので、期待以上の効果に感謝した。



ヒーリングの質は瞑想の深さに従う。

体とその叡智が必要なことを行うのを、ただ逆らわずにあるがまま寄り添う。

多分純粋な交流に必要なのはそれだけだ。

内に対しても、外に対しても、僕等はただ、そうであればいいのだと思う。



人々が起き出したので、日の出を目指し、山頂までの最後の道を登る。

空気が薄いからか、前半の500メートルがとてもきつかった。

しかし、山頂が見えてからの、後半の500メートルはあきれるほど早かった。

人間の意志と能力との見えざる力関係の不思議。

何かの加護でもあったかのようにとても軽やかに感じた。



そして辿り着いた。

ここが山頂。



そして初めて理解した。

白山神社の奥の宮は本当にここにあったのだ。

てっきり山小屋から登る入り口の横にあった立派な社がそれだと思っていた。



「山頂で待ってます」



そういうことか。

石垣に囲まれて風を避けるように、小さなお社が建っていた。



ようやく来たよ。

なんとなく明るく温かい風が迎えてくれたような気がした。



朝日を臨む方角に、風を遮る大きな岩の下、ちょうどよく窪んだ岩があったので、そこで座って朝日を待った。

一緒に登ったソウルブラザーのギョカンは、チベットのシンギングボウルを取り出し、隣で静かに奏で始めた。











その横で僕は、この大地、山の下にポータルがあるというシャンバラの人々や、ここまで励ましてくれた菊理媛のことを思った。

ククリヒメは日本書紀に一度だけ出て来るとても不思議な神様。

イザナギとイザナミが黄泉の国まで行って喧嘩したときに出て来て、それを諌めて仲裁した人。

天の神も地の神も、人も世界も、ほとんどその後に生まれて来る。

彼女がいなかったら世界は混沌としたまま、今の様にはなってなかったかもしれないというとても大事な人。

統合と和合の神様。



朝日を待ちながらククリヒメの意識層につながってみた。

彼女のそれは、日本神界のそれを大きく超えているように感じた。

もっと大きくて、ひょっとしたらガイア意識よりも大きな領域。銀河磁界意識とか、すごく大きく根源的な智性。

こういう宇宙的な意識はとても馴染み深い。



言葉を超えた感覚的な対話だった。

菩薩のような、この世界のすべてを慈しむ祈りのような意識を感じていた。

朝日を待ちながら、あぁそうか、お日様みたいだなって思った。

この世界は、生きとし生けるすべてのものは、とても大きな愛と慈しみに常に包まれている。

僕等の意識を超えた枠組みの中で、世界を形作るあらゆる存在達が、本当に深い慈しみと愛を注いで世界に寄り添っている。

僕等はその一部としてここにある。

僕等はその一部だから、僕等の中にもその中心を通して一つにつながる宇宙がある。



クラインの壺のように、それらは内と外ではなく、内も外も一つのものだ。

世界が、ククリヒメが僕に示したのは、あなたもまたそのようでありなさいということだった。

純粋な密度を保ちながら、内も外も分けることなく、ただ世界を己の中に持ち、己を世界の中に開いて居続けなさいということだった。



それは、世界を切り分けずに、己をもって一つに統合する(ククル)こと。

多分愛は、その純粋な在り方そのもののこと。












夜が明けた。

静かで厳かな夜明け。



世界は本当にきれいだった。

少しだけ泣いた。



僕の中で何かがククられたのだろうか。

それを知るのは、多分もう少し後のこと。

でも外に何かを求めて、時々迷子になっていた小さな子は、自分のいていい場所、いるべき場所を見つけられたのかもしれない。

今日受け取った静かな心がいつもここにあるのなら、きっとそれを見失わずにいられる。





ギョカンが言っていた。

『あんな死ぬような思いをして丸一日かけて山を登って、ハイライトはたった40分の夜明けだった』

「あなたにとってこの大変だった一日は、それに見合う価値があったかい?」

『あれを見るためだったら、僕は三日山を登り続けたって構わない』



旅の理由はそれぞれ。

でも何か同じものを同じ時に分かち合うなら、きっとそこに意味はある。





しかし本当に辛いのはこの朝日を見た帰り、下りの山道だったのだけど。

僕等の膝と腿は、その後のハードな山道の下りで、もうほとんどギリギリのプルプルになるまで追い込まれた。

復路は往路と違う、景観はよいけどハードな方の道だったので、本当にこれが行きの道でなくて良かったと心底思った。

初日の雨の中、あの道だったら心折れて頂上までは辿り着けなかったと確信できる。

だからそれもまた計らいだったのかもしれないけれど。





余談だけど、今日はもうどうにも足が動かず、横向きに一段ずつしか階段を降りれなくなっている。

よくできたもので、今朝の夜行バスで家に戻ってきたところに、ものすごく久しぶりの友人から連絡があった。

普段は遠くの島に住んでいるのだけど、ちょうど今日近くに泊まっているので会えないかと。

ちょっと困った状況になっているようだったので、会いに行ってひとしきり話を聞いて、私もそれが本業なので相応しいアドバイスと方向性を示したら、とても喜んでもらえた。

そしたらお礼にしっかりマッサージをしてくれることになって、今日自分が一番欲しいものだったのでありがたく受け取らせて頂いた。ほんと助かった。

神様ってアフターケアまでほんと万全。



さて、これからまたしっかり働かせていただきます。

かみさま、どうか私の心と御心が、透明な同じもので満ちたあの領域の中で、共鳴し続けることが出来ますように。

そしてそれを分かち合うことが出来ますように。





ここまで読んでくれてありがとう。



















 

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