後退する大人の美意識に対する提言



我が意を得た素晴らしい指摘なのでどうしてもシェアしておきたい。



何という美しくも鋭い品位のある指摘だろう。文学の存在しなければならない意義がひしひしと伝わってくる。

この品位を養うための基盤が社会全体で劣化している事をこそ憂う。

言葉は意識の不可欠な栄養素だ。その感受性を育む土を汚染させてはならない。









『後退する大人の美意識





 「幼稚化」と書いて、あわてて、「幼児の方がまだましな意識を持っている」と思い直して「後退する」に書き換えました。

 世も末だと、最近思うことが多かったので、あまり驚きませんでしたが、最近、横浜に作られた「うんこミュージアム」というアミューズメント施設の記事を読んで、ただ嘆息しました。このような状況を喜び、はやし立てるモラルが確固として存在している状況、進んでいった経済至上主義の前には、大人のモラルや美意識も歯止めが利かなくなったということでしょうか。

 幼児が「うんこ」について興味を持つのは、それが大人社会でのタブーとして認識されているからです。大人が嫌がり怒るタブーを敢えて口にすることにより、社会ルールに逆らい、その場では大人と対等の立場を確保できる。そして、それが自分自身の生産物であるという自信と興味から、うんこに対しての愛着となる。いわば彼らの自立の道具としてのうんこの役割があります。

 それはいわば楽しさや探求とは関係のない、本能的な快楽に裏打ちされた興味です。それを大人が「子どもの純真な興味」とはき違え、またビジネスとの道具として、大人がタブーを標榜してしまっている…。

 ミュージアムには、若い女性もたくさん訪れているらしく、オブジェを持って写真を撮る女性たちの写真が載っています。「かわいい!」と思っているのでしょう。でもその姿はいずれ、歴史の教科書にも紹介されるほど滑稽であると本人たちは気づいていないようです。若い彼女たちは、まるで精神的な成熟を拒否し、大人に対しての反抗心を自らが後退することによって満たしているようにも映ります。

? 彼女たちが大人と見出すのは、無感覚で生きざるを得ない大人像や、おそらく社会全体が持つ閉塞感、異常な高齢化社会に対する不勉強や偏見もあるように感じます。弱者が生きにくい世の中をことさら強調するニュースを浴びて成長した彼は当然のように経年に対しての嫌悪感を育てていったことでしょう。そしてそれは、自らの経年に対する拒否にもつながっている。

 経済的に劣る者、生産性のないものが、弱者となるゆがんだ社会の闇を、彼女たちは知らず知らずのうちに血肉にし、自らの美意識をゆがめても体現してしまったのかもしれません。その闇を作り上げたものこそ、最新技術でデコレーションすることにより、タブーも金に換えられると信じている、このゆがんだ社会であると思います。

 おそらくミュージアムは、大人も流れによって楽しむことで、子どもにとっては大人を困らせる道具としての意味を失い、ただの乾いた時代のあだ花的な場所になると思います。





 「うんこ」を使った勉強の本が売れた理由は、タブーに挑戦する子どもの自立心を捉え遊び心を刺激して勉強の負のイメージを隠したためだと思われます。それで勉強をするようになったと喜ぶのであれば、うんこが出てくる構造のドリルを与え続ける必要があります。 

 品のない言葉によってタブーの基準がゆがもうが、「子どもがドリルをする方がよろしい」と、うんこを肯定して喜んで与えてしまった親は、子どもたちが今は表にでなくても様々な感性の弊害を背負ってしまったことには意識が及んでなかったのかもしれません。





? 子どもの美意識などまったく意にも留めず、表現が奇抜で面白い、大先生、とあがめられ多額の印税を手にした絵本作家。斜陽の出版業愛をけん引しているという自信のもとに、莫大な金を儲けて喜んでいる出版社。

? 彼らのなんら歴史的な贖罪も問われることはありませんし、社会的な信用は多くの人に支持されたかれら彼らの側にあります。これから数年以内に本を売り切り、何事もなかったようにまた売り切る絵本を作りつづけ、それがまたヒット作になっていくのでしょう。





 私たちが「美しいもの」にこだわりつつけているのは、彼らから見れば時代遅れなのかもしれません。品のない言葉が児童書業界にさえ氾濫する現状の中では、マイノリティーと言えます。またこの記事を読まれて、少なからず共感されるかたも、おそらく少数派に属されているのでしょう。





 今回の出来事は、そのまま絵本の業界の状況にもあてはまります。

?売れる物を如何に売るかがビジネスの原理ではありますが、扱っている物は、子どもの心を育てる大切な道具であるという認識が決定的に欠けている。

「子どもの為を想って」「子どもが楽しめる」「面白い」その程度を考えるのは、あたかも「平和」を語ると同じく、踏まえておくべき当然の認識で、さらにその上、子どもと親の10年後20年後を見据えて作るのが本来の絵本であると思います。その意味で、あまりにも浅い文学性で、絵本をしたり顔で作っている編集者が多いと言わざるを得ません。

 現在の消費的な絵本を一般化させた大きな責任は、このような職人感覚の摩耗にあると私は思います。





 面白い、楽しい、美しいは、個性によって違うからこそ、可能性もあるものですが、その共通する基準を育てていっている幼児に対して、大人は、先人としての責任があるのではないでしょうか。

 個々の共通点を見極め、全体的にあるべき方向へ導いていくのがこの時期の文学の役目であるのではないでしょうか。それを不勉強なままで、ただ売れることに特化したデザイン性が絵本の意味であるとはき違えている大先生方があまりにも目立っていると、私はメディアの在り方にも疑問を持っています。





 ある一部のクリエーターがしかけることで、絵本が何万分も売れる。それは奇抜で、一部の有名人の「おもしろい」という軽い言葉に裏打ちされ、ネットで配信される「話題」という文句と共にあたかも万人の支持を得ているように装飾されたコマーシャルを通して本来以上の価値をもった存在になる。

 その一方で、70年前から読み継がれているような幼い心を満たしてくれる宝物のような絵本が次々と絶版になっていく。

 絵本は、小さな人たちと共有できる唯一の文学です。だからこそ、社会の文化度を測る尺度にもなり得ます。この国の文化度を測るとすれば…

 一昔前なら「品がないことをするな」という言葉で一蹴されてきた美意識が、居住まいを正して説明しなければ理解されなくなった世の中。

 危機感を抱いているのは私だけでしょうか。





 小さい人たちが絵本を選ぶ基準はそれぞれです。

「これがいい」「かわいい」と思うその気持ちに対して、「これは品がない」などという権利は誰にもありません。

 それがかけがえのないその子の個性なのですから。

 認め、励ましてあげるのが大人の役目です。ただ、その個性を作っているのは、大人が作り上げ、知らず知らずのうちに子ども影響を与え続けていた「環境」であることも忘れてはいけません。

 大人にはその環境を整えて、個性の形をつくっていく重大な責任があるのです。その責任をテレビや幼稚園に押し付けて、勝手に手にした興味と思うのは、長い目で見ればネグレクトにも等しい怠慢でもあります。その小さな角度の違いが、小学生の高学年になっても「ゾロリかマンガしか読まない」という小さな現象になって表れても、その理由を省みることもなかなかありません。 その時期に、心を動かす文学作品に慣れ親しむことができた環境もたくさん存在したのにもかかわらず。その感覚が生きていくのに役に立っているかどうか、文学とは普段は役には立たないのかもしれませんが、魂を根底で支えていくものです。それすらも問われることもないかもしれません。





 文学を忘れた大人の後退。誰かが言葉を言い続けなくてはならないように思います。それが、私たちが引き継いだ絵本に関わる職人としての誇りでもあります。

 私はまだあきらめてはいません。この小さな絵本屋で何ができるのか。あともう少しだけ、この抵抗を続けていきたいと思います。



                           蓮岡 修』

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