何かを達成するとき、自分の意識がどのレベルからそれを発するかということが、現実創造の上でそれが実現可能かどうかを決定付けている。
それらはキネシオロジーテストの科学的計測法により計測可能である。
上記の表は、意識のエネルギーフィールドの実用的な指数をまとめた「意識のマップ」である。
パワーの数値が10の20乗以上の「勇気」と、10の50乗以上の「愛」が、人間の存在の仕方の大きな分岐点になる。
パワーの数値が10の20乗以下は「フォース」に属している意識であり、10の20乗以上は「パワー」に属するとされている。
そこを境に人の意識はゼロポイントを越えて、プラスに転じ始める。
本質的に生きる、あるいは生きることを心から喜びを持って受けとるためには、自分の意識が今何処にあり、何から発しているかを自覚することが重要だ。
意識を望ましい状態へと引き戻す方法は様々あるが、私たちは何故それが重要なのかを理解しておく必要がある。
結局のところ、それ以外に私たちは最終的に生きる意味を見つけることが出来ないからだ。
自身のプレゼンスを取り戻し、宇宙法に則った原理である愛と調和の在り方を持つセンターにどう至るのか。
あらゆることがそれに至る試みになる。
おそらくはそうでないことも含めて、その体験し得る幅のすべてが魂のデザインに組み込まれている。
以下は自分への覚書。
繰り返し、立ち戻るために何度でも心に留めよう。
宇宙よ、私はフォースでした。
それを認めます。
私はパワーへと向かいます。
常にパワーの側に立ち、与え受け取ります。
どうか源から与えることが出来ますように。
いつもそこにいられますように。
どんなときも最高善と真善美を通して、世界を観ることが出来ますように。
『研究を進めるにつれて、パワーは「意味」から生じていることがわかってきました。
また、パワーは「動機」や「原理」とも関係しています。
パワーは生命そのものを常に支えることに関係しています。
それは人間の気高さという性質を訴えています。(中略)
パワーは私たちを高揚させ、威厳を与え気高くしてくれるものです。
フォースは常に正当化されなければなりませんが、パワーは正当化される必要はまったくありません。
フォースは部分的なものに関係しますが、パワーは全体に関係しています。
フォースの本質を分析すれば、それがなぜいつもパワーに負けるのかという理由は明確です。
それは「反発力」という物理学の基本法則に従っているからです。
つまり、フォースは対立するフォースを自動的に作ってしまうのです。
したがって、自ら制限を作り出します。(中略)
フォースは、常に何かに対立する行動をとりますが、パワーは何に対しても敵対するような行動はとりません。
フォースは不完全なものであり、絶えずエネルギーが与えられなければなりません。
パワーは全体であり、また完璧です。
外部からは何も必要とせず、要求もしません。
ニーズがまったくないということです。
フォースは留まることを知らないほど強欲なので、絶えず消費してしまいます。
パワーは対照的で、エネルギーを与えながら前進させ、供給し、動かし、サポートします。
パワーは、生命力とエネルギーを与えてくれます。
そして、フォースはこれらを奪い去ります。
パワーは「慈愛」と繋がっていて、自分自身がポジティブな意識になっていることに気づかせてくれます。
フォースは判断や批判とつながっていて、自分自身がみじめに感じられるだけです。(中略)
パワーの源を探っていくと、それは「意味」とつながることがわかります。
また、「意味」は、生命の大切さとつながっていることもわかります。(中略)
パワーの源は議論をもはや必要とせず、証明する対象にはなりません。
自明なので論争する必要がないのです。(中略)
結局、パワーの根源について言えることは、唯一、「あるがまま」存在することといえるでしょう。
あらゆる文明が固有の「原理」によって特徴づけられています。(中略)
原理について調べると、目に見えない「意識の中の領域」に属していることがわかります。(中略)
本当の「パワー」は意識そのものから生じているからです。
私たちが見ているものは、目に見えないものの目に見える現象です。(中略)
パワーは私たちを無限に動機づけてくれます。(中略)
むなしさ(空虚さ)に迷い混むのは、パワーを引き起こす「原理」に人生を合わせていないことから生じます。』
(「パワーか、フォースか」D.R.ホーキンズ 第8章より抜粋)
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