26日に横浜を出て昨夜ようやく九州に入りました。
もう何度めかの日本横断です。
27日までは愛知県新城市での大地の再生プロジェクトに参加していました。
折しも大地の再生の創始者である、矢野智徳さんが視察に来るというタイミング。
本来なら専門家チームと直弟子さん達しか呼ばれないような特別回に参加させて頂けました。
大地の再生
について僕からきちんと説明することは難しいです。
ですがこれはあまりにも核心的で美しい活動です。
(詳しくはリンク先の説明をご参照ください)
生命というものの持つ非常に大きな多層性。
大地、水の循環、地球、意識。
地球という巨大な生命と、相似象(フラクタルな入れ子構造)としての自然、人の命。
僕にはこの活動は、エコロジーとスピリチュアルの完全な融合のように映りました。
もし本当に〝地に足の着いたスピリチュアル〟というものがあるとすれば、そのプロセスとしてこういう形を取り得るだろうという、ひとつの希望に見えました。
(ちなみに僕の大学卒論テーマは「癒しとエコロジー」でした)
スピリチュアルとは意識の在り方です。
そして霊的でない生命は有り得ません。
己の生命に意識的であろうとすれば、それは自ずから自然との融合を図ろうとするでしょう。
その時我々は、生命の上部構造である、地球という単位の生命の形と、その意識に接続します。
その層の生命活動を、自分の生命活動の延長として意識できる力が、私達をより大きな構造の一部としての生命存在へと引き上げると思います。
真に霊的な在り方とは、そういう視点の成長だと思うのです。
確かにこの宇宙では、どんなに源から分離した意識も、いかなる体験でも、選択可能です。
宇宙の愛と懐の深さは二元性を否定しません。
むしろその中で、自らを知りなさいと促します。
それでももういつからか、魂の余分を削ぎ落としていった先にあるものを、見てみたいと望むようになりました。
私達は結局、より大きな生命の一部です。
個であることと、全体の一部であることは矛盾しません。
もし、意識を開いて生きるために、現実的で物理的な道筋があるとしたら、それは目の前にある自然の理を紐解くことから教えてくれるでしょう。
それらの智慧と生活が結びついたライフスタイルを、私達はもう共に創造していくことが出来るはずです。
矢野さんは視察の中で、大地の再生の基本的な考え方を示してくださいました。
今目の前に見えている場所が、より大きな視点から見れば、どのような意味を持つのか、縮尺を変えた様々な種類の地図を読み解きながら話してくれました。
例えば川だけを描かれた地図があることを、今回僕は初めて知りました。
そしてそれは、人間の血管と非常によく似ていました。
川や地下水脈は、人間の血管や神経のように大地と地球を覆い尽くして、月の潮汐運動と共に、生命の源たる水やエネルギーを隅々まで行き渡らせています。
それは我々の体と同じ、"生命の営み"であると、本当に実感できました。
それが澱んだり止まったりすれば、自然は苔や植生の変化から土壌の状態を教えてくれます。
人はそれを読み取り、ほんの少しの手助けをする事で、大地がそれ自身の生命としての恒常性(ホメオスタシス、バランスや全体性への回復力)を取り戻すことの手助けをする事が出来ます。
動かない澱んだ水がある場所は水灰汁が溜まり、その大地は気や風や水を通せなくなります。
そこには生命の気の巡りの不活性な場が生じて、機能不全が起きます。
それを放置すればやがて重篤な障害や生命の死に繋がっていきます。
この辺りの仕組みは人間の個体内での健康と病気のシステムと同じだと感じました。
幸いにも自分はクラニオセイクラルや他のヒーリングシステムを学んでいたので、すんなり入って来て理解できました。
大地は我々と同じ生命システムを持つ、私達の母体です。
人間だけがバランスを見失ってその母体を傷つけている。
それを、自然全体のプロセスからすれば、ほんのわずかな人の手業で改善に促すことが出来るということを知ることが出来ました。
さらに自然や他の生命全体がそのプロセスを引き継ぎ、私達は生命全体で地球を癒そうとする恒常性システムを構成しています。
必要なのは、ただ気付きを持ってそれを見て、ほんの少しでも関わろうとすること。
自分と大地を、同じ当体意識の延長として実感を持って捉えることが出来たのは、今回得た計り知れない体験です。
知識が腑に落ちることで、人は動き出すことができるから。
目に見える世界や生命のすべて。
大地や樹々や私達の、外側にも内側にも、水や風や気が流れている。
それを感じ、考え、行動して行きることが、生命全体のプロセスに参加して生きていくこと。
少なからずそういう在り方を、選んでいきたいなと思うようになりました。
視察会後は、同市内の鳳来寺山に皆で向かいました。
山全体が国定天然記念物。
(しかも20年前に大地の再生の活動のキッカケになった始まりの地)
今でも十分魅力的な山に見えましたが、それでも生命力の減少は否めないようです。
鳳来寺に向かう1400段近くある石段の
山道を、シャベルや小さなツルハシを持った一団で登ってきました。
子供達もいたので怪しまれずに済んだけど、全くよく分からない団体だったと思います。
石段の途中に大きな水溜まりを見つける度に、滞りを解消すべく水路を作って水捌けを促す。
何が彼等を日暮れまでその作業に駆り立てるのか。
おそらく理屈なんてなくて、ただそうすることが楽しいんです。
こんなほんのわずかな作業ですら、大地が呼吸して生き返るのが。
それは多分、ただ内なる生命の自然に従っただけ。
道に倒れている人がいたら、自然に何かしてあげたくなるように。
もし出来ることが何か知っていたら、人は多分自然に手を出してしまうのかもしれません。
だから弱らせてしまった地球や動植物に対して、人が手を当てたくなるのは、生き物としての自然なことなのだと思います。
これらの手当ての方法や考え方が、もっと多くの人に届けばいいなと願います。
今年の最後の方でしたが、大地の再生に何回か関わらせて頂き、たくさんの洞察や仲間たちを得ることが出来ました。
この日々の中で得た光は、来年以降の流れや活動に確かな指針を与えました。
微力ながら今後少しでも、このような生命全体のためになる智慧を、届ける役に立ちたいと思います。
皆さま今年もありがとうございました。
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