ブーゲンビリアの導き



『〝そのうち〟なんて当てにならないな。いまがその時さ
人の目なんか気にしないで、思うとおりに暮らしていればいいのさ
大切なのは、自分のしたいことを自分で知っているってことだよ』
スナフキン



不思議なご縁に導かれ、屋久島に移住が決定した。

実はこの夏で息子が三歳になった。
私自身が幼少期を海外で過ごしているので、六歳までの時間の大切さは身に染みて理解している。
私の生きるリズムや原風景は、椰子の揺れる東南アジアの中にある。
そしてそれが今も生き方の指針になっている。

三歳の彼の今生きる一年は、私達のそれとは比較にならない影響力を持つだろう
出来たら圧倒的な自然の中で育ててあげたい。
それは生きることに必要なセンスオブワンダーを育む時間になると信じている。

屋久島にはここ六年ほど、度々訪れていた。
多い時は年に三回くらい、家族を持ってからも毎年必ず行くようにしていた。

人のいない自然の中では、人の目には見えない色彩と、聴こえない音がたくさんある。
それらがまだカタチを持たないエネルギーのまま、器から溢れた生命そのもののように充満している。
多分そういう静寂の中にこそある見えない力が、人の内の透明な部分を充たす力を与えてくれているのだと思う。
透明な水で満たされた心はいつか、曇りなく世界を覗く透明な目を与えてくれる。
それは宇宙や自分に対する基本的な信頼を育んでくれるものになるだろう

突き詰めれば人のニーズはすべて、自然から人が得てきたものの代用品だ。
都市生活には便利さは全てあったが、一番欲しいものはなかった
圧倒的なスペースと時間、暖かさ、澄んだ水と空気だ。
だからここがいいと思った。


この島に住もうと本気で決めたその夜、友人宅で彼等の仲間の訃報が入った。
写真には、南国の花が開いたような、明るい笑顔と存在感を持った女性が写っていた。
生前直接彼女にお会いしたことはなかったが、逢えていたのなら容易に仲良くなれただろうと想像出来た。
そんな健やかな笑顔だった。

彼女は普段東京に住み、自身の主催するヨガリトリート等のために、度々島に滞在されていたそうだ。
後日その東京のおうちの遺影を、彼女らしい華やかな南国の花で飾って送り出してあげてほしいと、屋久島の仲間たちから依頼を受けた。

大きな仕事の依頼だ。(私はフラワーアレンジメントの講師でもある)
会ったことはなかったけど、なぜか彼女を他人とは感じられなかったので快諾した。
単純に僕らからも彼女に何かしてあげたかった。

初めて写真を見たときから、彼女の色の印象は決まっていた。
朝焼けのような深いピンク、ゴールドオレンジ、サンライトイエロー。
咲き乱れる南国の花々の楽園。
溢れ出すようなブーゲンビリアのマゼンダ、ハイビスカスの赤、ヘリコニアや極楽鳥花やクルクマの鮮やかな色彩。

この季節に仕入れるのは正直難しいかと思っていたが、二件目で見つけることが出来た。
溢れるばかりの鮮やかなディープピンクのブーゲンビリア!
完璧だ。イメージ通り。

早速製作に取り掛かった。




予算は大幅に超えたけど、満足のいく仕事ができた。
仲間たちから預かった思いを、彼女へと手渡して送り出すことが出来た気がした。

お金でない何かがきちんと循環したときは、螺旋が一つ上がってより大きな輪につながる感覚がある。
宇宙に届く心ある仕事をしたときには、それはきちんと受け取られている。
その時には気が付かなくても。


ところで我々は夏の終わりからずっと、屋久島で住む家を探し続けて来た。
不動産サイトを隈なくチェックし、理想の間取り図を描き出し、壁に貼り、そこに暮らした場合に見える景色、感じる風をイメージし続けて来た。

ちょうど一ヶ月後、それは思いもよらぬ形で現れたのだ

亡くなった彼女のご両親が、屋久島で彼女が使っていた別荘の整理に訪れた際、「この家どうしようか」と何とはなく呟かれたらしい。
そこにちょうど居合わせた(花の仕事を依頼してくれた)友人が、我々のことを彼らに話してくれた。
東京の彼女の遺影を飾ってくれたご家族が、屋久島に家を探していると。

ほどなく一両日中に話が進み、屋久島の家が決定した。
物事が動くときには天が後押ししてくれる。
この島に住もうと本気で決めたその夜にご縁が始まっていたことを思うと、我々は見えない次元からサポートされていると信じざるを得ない。
ご縁を繋いだ存在達に感謝した。


年末には引っ越しとなりそうだ。

丸5年営業した「旅人の樹 横浜元町サロン」は屋久島に移転する運びとなった。
旅人の樹の18年目は意外にも屋久島サロンにて皆様をお迎えすることとなりそう。

よろしくお願いいたします。


(※彼女のご家族のご好意で、今回のあらましの掲載許可をいただきました)








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