秋分をまたいだ。
これまでがだいぶ揺さぶられて、夏前からの大きなプロセスが一段落した感じ。
日常の環境や出来事の中に、自己の反応パターンを観て向き合ってきたなら、何かが収まる処に収まっている頃合いだろう。
穏やかさや寛ぎが、変化の中にも見つけられるのなら、おそらく現時点でのシフトは完了したのかもしれない。
自分の場合は朝、早起きしてヨガから始める生活が習慣化してから、躰に居るということが出来てきた。
躰をちゃんと動かして、伸ばしてから生活を始める。
それだけのことが、自分の内側に空を維持することに役立っている。
正直、"筋肉は嘘をつかない"というような脳筋思想は好きではなかったが、つまりは躰と一致して、自分の中に統合感を持って生きろということなのだろう。
せっかく海とか山を見ながら瞑想出来る環境にいるのに、頭の中が落ち着かない日もある。
その思考をただ眺めていると、なんだか色々なことに意味を与え過ぎているなと思う。
思考は物語やそこに意味を求めることが好きなんだな。
なら意味は無いのかもしれない。
意味がないのなら求めることにどんな意味がある?
ほら、そういうとこ。
山や海を眺める時間に意味を求めるなよ。
心地好い以上の意味はないんだよ。
自分の躰に一致して、心地好さを持って寛いで今ここにただ居られたら、それがすでに生きる意味なんだよ。
なんという矛盾。
一周回って止揚(対立する考え方や物事からより高い次元の答えを導き出すこと) している。
今朝山と海を観ながら、ただポカンと心を開いていたら、山が自分に入ってきた。
というか自分が山と一致したように、躰の中の空(くう)に山が居た。
自分の躰と一致感を持って一緒に居られるようになると、外側に在るものとも一緒に居られるらしい。
自分がジャッジのない、曇りのない一枚のスクリーンになって、ただ世界を映して観ている。
そこに何を映すのか選ぶのも自分。
なら自分の観ている世界は自分で決めている。
なら私は、自分のスクリーンに投影された映画の監督だ。
さらに言えば観客で演者だ。
ここはそういう映画で、即興劇の舞台。
で、その理解を持ったまま、日常に戻る。
そこで練習する。
山や海は自分を苛つかせたりしないからね。
人は他者や環境に投影や期待があると、自分の作った物語に容易に巻き込まれてしまう。
自分の中の反応パターンが見せる、自分の中の世界を、自分で投影している映画だと知り、巻き込まれずにいる練習。
愛とか空とか、それを可能にする内的スペースの状態には色々な呼び方があるけど、自分として生きるってそういうことかなと思う。
躰と一致して生きるって大事だな。
それがないと、今ここにその内的スペースを維持できない。
躰は自分自身と、自分と他者と、自分と宇宙とが踊る舞台。
常にそこが起点。
そこにただ在るということ。
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