猫に倣う甘え


甘えるの本質は自己受容だな。

自分が受け入れられる存在であることに疑いがない。
そうしたい時に相手の許可を必要としない。

そしてそれが得られようが得られまいが、自身の幸福がそもそも他者によって左右されないリソースを既に持っている。

だから甘えることに葛藤がない。
自分が既に満たされていて、十分であることを知っているから、私が私でいていいということを誰に証明する必要もない。

素晴らしく自立した状態だ。
甘えるためには自立が必要という真理。

欲しいものは既に此処に在り、それが既にあることを知っているから、求めて得られることに疑いがない。
外側にそれが得られるためには、内側にそれが既に満たされてある必要がある。

内と外は同じもの。
これは意識の話。

形のあるものを現実として体験するためには、形のない状態で疑いのない絵が自分の中に在る必要がある。
あって欲しいことを願うのではない、既にあることを知っている、疑いのない状態の信念。

私が私で在ることで既に十分な存在である実感を持っている状態だ。
実際には"足りない"を創っているのは思考だから、感覚として十全感がある状態である気付きを持つということが、欲しいものを得られる為に必要なのだ。

思考から自由に、感覚的に満たされた世界を歩く。(猫は最良の師である)
自分を外側のもので満たそうとしない時に、軽く願うものが叶い続ける。

重く願うものは叶わない。
それを欲しがっているから、それが足りないという信念が叶い続ける。

自分を重く捉え過ぎないことかもしれない。
自分のエゴが尊重される事から自由になると、小さな自分の歩く、この美しく大きな世界に目を向けられる。

既に与えられていて、既に満たされている自分に気付くこと。
探すなら、感謝を探せば、欲しいは大体既に叶っている。

それに焦点を合わせると、力まずに魔法が掛かる。
願ったものが目の前に現れる。

私達は既に甘やかされている。
あとは受け入れるだけ。

自分を受容することは、他者を含めた世界をありのまま受け入れること。
そうであって欲しいという、己の都合を通して他者や外側を見ないこと。

どれも誰もが、ただそのままに在る世界なだけなのだ。

エゴからもう少し自由であれば、期待から自由でいられる。
足りないと欲しいから自由になる。

己を含めた世界を愛せたら、それが自立で自己受容だ。
その時自然に自分の真ん中にいられる。
他者に寄りかからない重心は心地好い。


あぁそうか。猫が美しいのは自分の真ん中にブレない重心があるからだ。
完全な自己と世界のありのままの受容。

だからあんなに無条件に甘えられるんだな。








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