自分用メモ 呼吸とマインド
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静かに坐ってあなたの呼吸を
ただ見守り始めなさい
見守ることの最も簡単なやり方は
鼻の入り口から見守ることだ
呼吸が入るとき、
それが鼻の入り口に触れるのを感じ、
そこで見守りなさい
その感触を見守ることはよりやさしい
呼吸はあまりにも微妙だから、
初めのうちはただその感触を
見守りなさい
呼吸が入る
すると入ってくる呼吸を感じ、
それを見守りなさい
それから呼吸を追って、
それと同行しなさい
あなたは
呼吸が静止する瞬間に至る
のが分かる
ちょうどへそに近いどこかで
呼吸が止まる
ごくごくわずかの瞬間、
呼吸が止まる
それから再び、
外に向かって動き始める
そうしたらそれを追って行きなさい
再び、呼吸が鼻から
出ていく感触を感じなさい
それを追って外側に同行しなさい
再びあなたはごくわずかの瞬間、
呼吸が静止する瞬間に至る
そうするともう一度
その循環が始まる
息を吸い込む……とぎれる
息を吐き出す……とぎれる
息を吸い込む……とぎれる
その《切れ目》こそあなたの
内側の最も神秘的な現象だ
呼吸が入ってきて止まり、
全く動きがなくなるとき、
それこそが人が《神》と
出会える時点だ
あるいは、呼吸が外に出て止まり、
全く動きがなくなるときだ
覚えておくがいい
呼吸はあなたが止めるのではない
それはひとりでに止まる
あなたが止めたのでは
肝心な点をそっくり逃してしまう
というのは、
《為す人》が入り込み、
《目撃すること》がなくなるからだ
あなたが呼吸に為す事は何も無い
あなたは呼吸のパターンを
変えることも、
息を吸い込むことも
吐き出すこともない
それはヨガのプラーナヤマのようなものではない
プラーナヤマではあなたが
呼吸を操作し始める
それはそうしたものではない
あなたはは呼吸にまったく
手出ししてはならない
あなたはその自然な状態、
自然な流れのままでいる
息が出ていく時に、
それを追って行く
息が入ってくる時に、
それを追っていく
すると間もなく、
二つの《切れ目》があることに
気づくようになる
それらの《切れ目》にこそ、
扉がある
それらの《切れ目》の中で、
あなたは理解する
あなたは呼吸それ自体が
命でないことを知る
他の食物が同じように
生命にとっての食物ではあるだろう
が、命そのものではない
なぜなら呼吸が静止してる時にも、
そこにあなたが『いる』からだ
完全にそこに『いる』からだ
あなたは完全に意識し、
全く意識的に在る
しかも呼吸は止まっている
そこに、もはや息遣いは全くない
が、そこあなたはそこに『いる』
ひとたびあなたが
この呼吸の観照、
ブッダがヴィパサナとか
アナパナ・サティ・ヨガと
呼んだものを続けるとしたら、
もしあなたが呼吸を
見守り続け、
見守り続け、
見守り続けるとしたら、
その《切れ目》が徐々に広がり、
より大きくなっていくのに
気づく
ついには、それが数分にも及んで、
続くことが起こる
ひと呼吸が入り、
そして切れ目……
すると数分の間、
呼吸は出て行かない
全てが止まる
世界が止まる
時間が止まる
思考が止まる
というのも、呼吸が静止する時には
考えることが可能ではなくなるからだ
しかも、数分間にも及んで
呼吸が静止するとなると、
考えることは絶対に不可能だ
なぜなら思考のプロセスは
絶えず酸素を必要とし、
思考のプロセスと呼吸は、
非常に深く関係づけられているからだ
あなたが怒っている時、
あなたの呼吸のリズムは
いつもと異なっている
あなたが性的に刺激されている時も、
呼吸のリズムは異なる
あなたが沈黙している時も、
また呼吸のリズムは異なる
あなたが幸福の時も、
呼吸のリズムは異なる
あなたが悲しんでる時も、
また呼吸のリズムは異なる
あなたの呼吸はマインドの気分と
共に変化し続ける
そして逆も同様に当てはまる
呼吸が変化する時は
マインドの気分も変化する
また呼吸が止まる時には
マインドも止まる
マインドが静止しているその状態に
おいて全世界が止まる
なぜならマインドこそ
世界そのものだからだ
そしてその静止状態において、
初めてあなたのあなたは
呼吸の内なる呼吸、
生命の内なる生命の
なんたるかを知るに至る
その体験こそ解放だ
その体験こそあなたをして
《神》に目覚めさせる
《神》とは一人の人ではなく、
その《生命》の体験そのものだ
【Oshoの言葉】
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【「観照している意識」は永遠だ。時間の中にはない。だからこそ時間の中で起こるもの全てが夢となるのだ。】
あなたはかつて子供だった。
今はそうではない。
少年となり、老年となり、
そして子供時代は過去のものとなる。
少年期は過ぎ去った。
だがあなたは以前、
自分の子供時代と同化している。
「あれは他人に起こったことだ」と見なすことができない・・・
観照者になることができない。
子供時代を顧みるとき、
距離を置くことができない。
一体化してしまう。
少年時代を思い出すとき、
いつもそれと一体化してしまう。
それはもはやただの夢だ。
もし自分の子供時代を、
夢と見なし、
目の前を過ぎていく映画だと
見なすことができたら、
そしてそれに同化せず、
ただの観照者でいられたら、
そのときにはきっと
自己についての非常に微妙な洞察に
到達できるだろう。
もし自分の過去を
ひとつの映画と見なし、
夢と見なすことができたら、
そして
「自分はその一部ではない、
自分はその外にいる」
実際、そのとおりだ…
と見なすことができたら、
そのときには
いろいろなことが起こる。
自分の子供時代について
考えているとき、
あなたはその中にいない・・・
決していない。
子供時代はただの記憶、
ただ過去の記憶だ。
あなたは距離をおいて
それを眺めている。
あなたは別のものだ。
観照者だ。
もしこの観照を
感じることができたら、
子供時代をスクリーン上の
映画と見なすことができたら、
いろいろなことが起こる。
ひとつ。
もし子供時代がただの夢になれば
今現在のあなたはすべて、
明日には夢になる。
もしあなたが若かったら、その若さは夢になる。
もし歳とっていたら、
その老年もまた夢になる。
かつてあなたは子供だった。
今その子供時代はただの夢となり、
観察することができる。
過去から始めるといい。
過去を観察し、
そこから自分を引き離す
観照者となる。
それから未来を観察する。
未来のことで想像できるものを
観察してみる。
そしてそれに対しても、
観照者となる。
そうすれば現在の自分が
たやすく観照できる。
今この瞬間に現在であるものはみな、
昨日には未来だったし、
明日には過去となるからだ。
その観照は決して
過去でもなければ、
未来でもない。
あなたの「観照している意識」は
永遠だ。
それは、時間の中にはない。
だからこそ、
時間の中で起こるものすべてが
夢となるのだ。
また、こんなこともある。
夜、夢を見ているとき、
いつもあなたは
それと同化してしまう。
そして、夢の中ではそれが
夢だと認識できない。
朝、夢から醒めてやっと、
それが夢であり、
現実でなかったと認識する。
なぜか。
それはあなたが離れているから・・・
その中にいないからだ。
そこには隙間がある。
隙間が開いている。
それで夢だとわかる。
あなたの過去とはいったい何か。
そこには隙間がある。
間隔がある。
それを夢として見てごらん。
もはやそれは夢だ、
夢以上の何物でもない。
なぜなら、夢が記憶となるように
過去もただの記憶と
なっているからだ。
「これは自分の子供時代のことだ」と思っていることが
果たして現実だったのか、
あるいは夢だったのか、
はっきりとは証明できない。
それを証明するのは難しい。
ただの夢だったのかもしれないし、
現実だったのかも知れない。
果たして、それが夢か現実か、
記憶の上ではわからない。
心理学者によれば、
老人はときとして
自分の夢見たことと現実を
混同することがあると言う。
子供はいつも混同する。
朝、小さな子供は区別できない。
夢で見たことは現実でないのに、
夢の中で壊れたおもちゃに
泣いたりする。
あなたも眠りから醒めた後、
しばらくは
まだ夢に影響されている。
もし夢の中で」誰かに
殺されそうになったら、
その眠りからすっかり
目覚めた後でも、
まだ心臓の鼓動は速く、
まだ汗をかいてるかも知れない。
かすかな恐怖はまだまわりを
うろついている。
もう目は覚め、夢は終っているのに、
しばらくのあいだは
それがただの夢だったとは
感じられない。
それが夢だと感じられて初めて、
やっとそこから抜け出し、
恐怖はなくなる。
もし過去がただの夢だと
感じられたら、
とは言っても
「過去はただの夢だった」という
考えを強制せよというのではない。
結果として、そうなるというのだ、
もし過去が観察できたら、
もし巻き込まれることがなく
過去に目覚めていられたら、
もし距離を保って眺めていられたら、
それは夢となる。
観照者として眺められることの
できるものは、
どんなものでも夢だ。
シャンカラやナーガールジュナが
「この世は夢だ」と
言ったのもそのためだ。
この世が実際に夢だと
いうわけではない。
この世が実際に夢だというほど、
彼らは馬鹿でも間抜けでもない。
彼らが言わんとしていたことは、
自分が観照者になったということだ。
これほど現実な世界に対してさえ、
彼らは観照者となった。
いったん観照者になったら、
その対象は夢となる。
だからこそ、
「世界はマーヤ(幻影)だ」と言われるのだ。
それは非現実だという意味ではなく、
「それに対して観照者になる」という意味だ。
いったん観照者になったら、
完璧に目覚めた観照者になったら、
すべては落ちる
―夢のように―。
なぜなら、
そこには
距離があって、
同化がないからだ。
ところが我々はいつも同化している。
【Oshoの言葉】
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