夏至の覚書


夏至に向かう月。
美しい満月から、新月に向かう変容の時間。
それは開花というよりは発芽に近く、なんだか地上にようやく着地して、殻を割って芽が出たかのような夜だった。

新月の晩に瞑想をした。
自分が何をしに地球に来たのか、内側にあった一番純粋な質につながることが出来た。
一番深奥には、人を愛したい、自身とつながりたいという思いがあった。

ずっと探している一番欲しいものには永遠につながれないと思っていたのは、私自身につながりたかったから。
自分とつながっていないと、人をまっすぐに見ることは出来ないと知った。

”私”というのは、思考によって個として切り離されているかに見える、ある”視点”だから。
思考は私ではない。
思考に自分の視座を明け渡すと、私である”視点”は真実を映せなくなる。

だからあなたが見えなくなる。
あなたにも私にも、つながれなくなる。

”私”は”自分”だとおもっている思考ではなく、より大きな全てである生命の先端。
自分の本質は一つであるものの指先。
その指は、自身の願いを指し示すために与えられた自由意志。
だから私たちは願うためにここにいる。

思考によって全体から適度に分離された”私”が願い、ただ一つであるものがそれを為している。
だからあなたは私と同じ、一つである意識だ。

分離しているって素晴らしい。
他者を通してすべてであるものを愛せる。

ただ気付いていたいと思う。
すべてがひとつのものでできていると。

愛という言葉にはたくさんの理解があって、正確に共有しにくい。
ここでの愛はベクトルを持たない、ただすべてが一つである感覚に近い。
紐の端と端にあなたと私がいて、その輪が螺旋を描くように、始まりも終わりもない一つになる。

「あなたが見える」と純粋に言えるようになりたい。
まっすぐに誰かを見ることができたなら、人はいつか曇りのない瞳を持つことができるだろう。



ちなみに本日は断食五日目。
人参ジュースと酵素ジュースでゆったり過ごしている。

毎年、夏至と冬至には三日以上の断食をして身を清めることにしている。
これに月二回くらいの一日断食(新月、満月から数えて十一日目のエカダシの日毎)を加えると、年間で一ヵ月分くらいを断食して過ごす計算になる。
イスラムのラマダンも一か月くらいだし、なんとなくキリが良いので今年も続けている。

昨日急に午後から梅雨の晴間が現れたので、夏越の大祓に独り滝行をしてきた。
海岸沿いの洞窟の中に滝がある場所を、以前教えていただいた。
以来折に触れて訪れては、清めに使わせていただいている。
梅雨中なので昨日は水量が多く、中々勇気のいる滝行だった。
身心諸々だいぶすっきりしてきたので、今年も調った夏至を迎えられそうでありがたい。


なお、今年リーディングで受け取っている情報によると、ここから始まる秋までの流れは、多くの人々にとって今後の数年間を方向づける、はっきりした指向性を作り出すとのこと。
夏至までの流れの中で、自分がどのようにありたいのか、地球に何をしに来たのかを自覚した人々は、ここからの三ヶ月を通して着地して行くだろう。
春からの内側のプロセスが終わり、それを持ってどのように周りの世界や社会に、自身の仕事や役割に還元していくかの外側のプロセスに入る。
それらは十月以降に始まる、新たな飛翔に向かう助走となるだろう。






 

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