身につくということ


武術を二年ほど習い始めて、いくつか気が付いたことがある。
人間は自分の時間や体験を圧縮して、平面化することで、後世に技術やイメージを伝達してきたということ。
それはそれぞれの表現手段で残された物語や楽譜、設計図や空手の型みたいなものだ。

型というのは、立体的な時間軸の移動を平面化したものだから、平面図を見て立体を思い描けるような、移動する時間軸と共に変化する局面を同時に思い描けるような想像力がないと役に立たない。
そうしないとただの気合いの乗った一人舞になる。
型は見えない踊り手達と共に舞う力が必要なセッションなのだ。

例えば岡本克己師匠の立ち上げた空剣空手道では、最も基本的なただの中段突きの前にさえ、必ず先に相手の突きを払う動作が入る。
これは通常の空手にはない所作だ。
この所作がなぜ必要なのかは、師匠と組手を実際にやってみるようになって初めて分かる。

まず目の前に攻撃意思を持って対峙する人物が、自分に攻撃を仕掛けてくるとしたら、それを防ぐ最も合理的な手段は何だろうかと考えてみる。
つまり相手の拳、あるいは武器が自分に届くより早く、相手の急所にこちらの攻撃が入ればいい。

剣道の足捌きが最速だと師匠は言う。
中でも正眼の構えからの突きの剣が最短最速であると。(空剣道の足捌きと構えは剣道をベースにしている)
人間の急所は身体の正面、正中線に集中している。
従って剣を正眼に構えて、相手の起こり(出だし)を読み切り、カウンターを正中線に入れれば勝てる。
これを後の先という。

相手が素人ならそれで大体勝負が付く。
しかし相手に心得があれば、同じことを考えるかもしれない。
こちらの先制に対してカウンターを合わせられる可能性がある。
だからカウンターが来るものと想定して、それを捌く所作が最初から型に組み込まれている。
後の先の先を取るという攻防が最初から織り込み済みなのだ。
三手を圧縮して最適化された動作が一手に込められているから、実践組手の中で展開して理屈を紐解かないと理解が腑に落ちない。

型には体験により蓄積された智慧が、圧縮された時間軸とともに折り畳まれている。
様式美の価値とはそういうものなのかもしれない。
形態は機能に従うから、結局は機能美でもある。

身に付くということは奥深い。
考えていては間に合わない。
だからある程度自動化するプロセスが型に組み込まれている。
それらを用いて自在に使いこなせて初めて身に付いたと言える。
そういえばピアノも、左手が考えず自動的に動くようになってようやく即興演奏が楽しめるようになった。

練習するとはそういう事なのだろう。
突き詰めれば練習の目的は二つしかない。
まず意識しないと出来ないことを、意識して出来るようになること。
次に意識すれば出来ることを、意識しないで出来るようになること。

我々が意識と身体を自在に扱うためには、動作が自動化されることによって生じる空(くう)のスペースが必要だ。
それはPCのメモリみたいなもので、あらゆるパフォーマンスに直結する作業台の広さだ。

空は思考から自由になり、直感的にソースに繋がることで得られる意識のバランスの上に成り立っている。
所謂ゾーンやフローと呼ばれる意識状態は閾値を越えた空だろう。

思考によって全体から切り離されていたエゴ(存在の焦点)が、直感によってソースとの全体性を回復し、身に付けた技術を通して、空のエリアで作業するとき、生まれる圧倒的なパフォーマンスが人間の本来持っている潜在力だ。
その時我々は自我を超えたトータリティーを持って、瞬間瞬間を生きることが出来るようになる。

何かを身に付けることの意義はここにあるのかもしれない。
そして我々は身に付けた技術を通して、自身の中心にある空と、全体意識の真ん中とを繋ぐのだ。







0 件のコメント :

コメントを投稿