クリスマスカクタスの異名を持つうちの大サボテンが、季節外れの花を付けた。
四半世紀は一緒に暮らしているが、四月の開花は初めての事だ。
以前にも、私の魂が開いたりするような大きな変化の際に一斉に開花した事がある。
きっとどこかで心がつながっている存在というものはあると思う。
実は一昨日の夜、三十年分くらいの捻れが解けるという体験をした。
その際、自分が闇だと思っているものは実際には存在しない、単なる捻れによって生じた光の不在に過ぎなかったのだと腑に落ちた。
ずっと光と闇の対立構造みたいな構図に、違和感を感じていた。
闇というよりは本来陰なのかもしれない。
寄り添い、付き従う表裏。
どちらも同じものの別な側面。
メビウスの輪を作るとき、二次元の面を捻って半回転させて繋ぐ。
そうするとそこに描いた直線は、立体に見える平面から出られなくなる。
こうやって自分の作り出したループを出られなくなって、内側に向かって圧縮された負の感情が、自分を閉じ込める闇を創り出す。
もっとシンプルに言うと、自分が好きだと思える自分で居続けられないと、その嘘や誤魔化し故に自分が嫌いになるということ。
私の場合は未熟なまま向き合わず逃げてしまった自分が本当は嫌いだった。
だから自分も愛せず、人も本当には愛せなかった。
捻れずに自分を真っ直ぐに愛していないと、人や世界からの愛を真っ直ぐに受け取れない。
捻れが戻ったなら、傷ついても人や世界を愛せる覚悟を持てる。
本当に優しい人があんなにも強いのは、清濁併せ呑んで一周してきたからなのだと今なら分かる。
捻れを解くには、共鳴して観察して気付くこと。
人でも言葉でも物語でも、心を振揺させるものに寄り添い、深く開いて自分の底を観ること。
捻れずにい続けるには、自分の本質に沿ってその願いを生きること、生きようとし続けること。
実は闇そのものは否定されるべきものではない。
闇は葛藤を超えて生きる覚悟を培うための、必要なプロセスだったりもする。
問題なのは、自分を正当化していると、捻れていることに自覚を持てないことだ。
そうすると葛藤を昇華するプロセス自体に入れない。
そうやって止まった時を闇を抱えて生きることになる。
自分の本質に向き合うことは、肥大した自我の部分的消失を伴うことだから恐ろしい。
それはある種の自身の死だからだ。
動けないほど縛られていても、自分を守ってきた鎧だったのならやはり手放し難い。
例えばそれは居場所を維持するために自分に課した歪み。
他人軸の物差しを自分にお仕着せた結果、持ち続けなければならなくなった仮面。
それでももうそれは事実重荷なのだ。
時が来たなら、手放して進む他ない。
メビウスの輪の捻れを正せば、本道の螺旋に戻り進み始める。
もう自分の道を躊躇う時間ではない。
動き始めた波は、この星を次の段階へと押し上げつつある。
私達は魂を開いて生きる方向へと押し進められていくだろう。
その道を降りる自由はあるが、眠ったまま生きる方がきっとしんどい。
開くべきときに開けない蕾は窮屈そうだ。
それに生命は開くべきだから開くのではない。
開きたいと思うから開く。
自分のためでも、誰かのためでも。
あの季節外れのサボテンの花のように、理由もタイミングも、いつだって自分で決めていいのだ。
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