大川の龍との対話


二ヵ月ぶりに屋久島に戻ったあと、ずっと挨拶に行きたいなと思っていた大川の滝の龍に会いに行ってきた。
台風のあとで豪快に水量を増してはいたが、清々しく山が開かれている日だった。

龍と呼んでいる意識層や現象は、これまでどちらかと言えば宇宙の理とかシステムに属する感覚だったのだけど、今日の対話ではその理解が反転した。


例えば僕らは滝に行ってその飛沫を浴びているだけで、自分が清められたような清々しさを感じることがある。
神社や聖域に行っても同様のことが起きる。

それは自分の体験している外的世界がクリアに清められた聖域であるために、それに繋がる自身の内的世界にバイブレーションの調和を見るからだ。
内的世界と外的世界は繋がっている体験の表裏だ。
実際には私達の意識には、本来内と外の表裏は存在しない。
それは便宜上作り出された自他を分ける境界線だからだ。


つまり先程伝えられ、受け取った内容を要約すると、いよいよこの秋分点あたりを境にして、この星での体験の密度が変わってくるよという事。

これまでの世界はどちらかというと、自分の外側の世界の方に重きがあった。
だから我々は外側の世界を変えるために努力してきた。
そうすることが、自分の体験の質を変えるためには必要だと信じてきたからだ。
常に自身の外側に他者や世界を置き、その関係性や関わりのことを体験と呼んできた。

この密度が今後は内外反転していくだろうと伝えられた。

自分の外側の世界に重きがあると、薄い自分の内側を埋めるために、外的な要素を取り込もうとする吸引圧が生まれる。

浸透圧をイメージできるだろうか。
我々の理性の作り出しているエゴの彼我境界を半透膜だと仮定すると、密度の薄い方から密度の濃い方へと、水の移動が引き起こされる。
そしてその水の移動は重力によって止まる。

エゴは足りない自己を埋めるため外的世界を内側に取り込むことで一つになろうとする。(そしてその試みは分離を前提とする世界では決して叶わない)
意識をどこに置いていたとしても、焦点を外的世界に置く限り、我々が満たされることはない。
一つになろうとする限り、一つにはなれない。

それを反転させる理解は古来より一つしかない。
境界の幕を取り除くことだ。
私と世界は最初から一つだった。
が、それが広く共有されるのはまだもう少し先の話。

これから始まるバイブレーションの世界は、自分の内側の世界の方に重きが移るだろう。
そうなるべきだという話ではなく、いよいよ本当にそうなってくる。

外側の世界よりも、内側の宇宙に密度の焦点と重さが移る。
すると何が起きるか。
世界を変える必要がなくなる。
内側の自身の焦点を維持すると、外側の世界は勝手に変わりだす。
これまで散々言われてきた内容ではあるが、この星で体験し得るリアリティとして本当にそうなっていくだろう。

一番最初の龍との対話に戻るが、今日は特に龍を内側に感じた。
世界の理やシステムとしての意識層を外側に感じて対話するのではなく、自身の中に龍が一致していた。
それは内的宇宙と外的世界が一致する感覚。
私が龍で、私が宇宙。
自身の中に世界があって、入れ子のようにそれを見ている視点がある。
そしてそれはとても心地好い、ニュートラルなただの事実。

一緒に行こうよという二つの道が交わり、一緒にいようというただ一つの道になる。
空間と仲良くなる感覚というか。
自身の内的空間を通して、外的世界の空間を重ねて見ている。
それはほとんど一致して、淡くとても愛おしい輝きを放っている。

龍も神も宇宙もなくて、源だけの自分であればいい。
自分というのはただの視点の名前だから。

時折垣間見えるこの場所が、福音や祝福のように背中を押すから、まだ私はこの星を希望を持って歩いていられる。
皆で見る夢は現実を創ると言ったあの歌のように、これから生まれるこの星の新しい世界の形を一緒に見ていたいと願った。










0 件のコメント :

コメントを投稿