自分用覚書
何度でも戻れるように。
~・~・~・~・~・~
恐れは
愛の不在にすぎない。
どのような不在についても
問題なのは、
それに対して
何ひとつ
直接にはできないことだ。
恐れは暗闇に似ている。
暗闇に対して
直接何が出来るだろう?
それを捨てることはできないし、
放り出すこともできないし、
持ち込むこともできない。
暗闇とかかわるには
明かりを持ちこむよりほかはない。
暗闇に至るには
明かりを経なければならない。
暗さが欲しいなら、
明かりを消せばいい。
暗いのがいやなら、
明かりをつければいい。
明かりに対して
何かをしなければならないのであって、
暗闇に対しては何もできない。
同じことが
愛と恐れについても言える。
愛は光であり、
恐れは闇だ。
恐れにとりつかれてしまった人は
その問題を解くことができない。
それは暗闇と取っ組み合うようなものだ。
あなたは遅かれ早かれ力尽きて、
疲れ果て、負けてしまう。
奇跡的なのは、
ありもしないものによって
打ち負かされるということだ!
そして負けた当人は必ず、
暗闇はなんて強いのだろう、
恐れはなんて強いのだろう、
無知はなんて強いのだろう、
無意識はなんて強いのだろうと感じる。
だが、
強さなどどこにもないし、
それは最初から存在しない。
存在しないものと闘ってはいけない。
・・・
それゆえに、
まず第一に
覚えておかなければならないのは、
恐れから
問題をつくりだしては
いけないということだ。
「愛」を問題にしなさい。
愛についてなら
すぐに何かができる。
待ったり
先延ばしにしたりする必要はない。
愛し始めなさい!
それは神からあなたへの、
あるいは<全体>から....
それをなんと呼んでもいい、
あなたへの自然な贈り物だ。
いいかな、
愛はあなたとともに生まれる。
それはあなたに
本来的に備わっている質だ。
必要なのは、
それに道を譲り、
その通路をつくり、
それを流れさせ、
それが起こるのを許すことだ。
私たちはみなそれを妨げ、
それを押しとどめている。
私たちが愛について
これほどけちなのは、
私たちがある種の経済学を
教えられてきたからだ。
その経済学は
外側の世界に関してはまったく正しい。
いくら大金を持っていても
人々に与えはじめたら、
あなたはじきに
一文無しになってしまい、
あなた自身が
物乞いをしなければならなくなる。
金を与えれば失われてしまう。
この経済学、
この算術が私たちの骨の髄にまで
染み込んでいる。
それは外側の世界にとっては
真実であり、
何ひとつそれに不都合はないが、
内なる旅に関しては真実でない。
そこでは
全面的にことなった
算術が働いている。
あなたは
与えれば与えるほど多くを得、
少ししか与えなければ
少ししか得ることができない。
まったく与えなかったら、
あなたは自然な美質を失ってしまう。
それはよどんで流れなくなり、
閉じ、地下に潜ってしまう。
表現を見つけることができず、
萎縮して、死んでしまう。
与えることと得ることの
高等数学を知ったなら、
あなたはただ
与えることによって得る。
何かが戻ってくるというのではなく、
まさにその与えることによって
豊かになる。
愛が広がり、
輝きを放ちはじめ、
そしてある日あなたは輝く。
どこに恐れがあるのか?
見つけようとしても
どこにもみつからない。
だから、
それは恐れを捨てるかどうかという
問題ではない。
恐れをすてることができた人など
ひとりもいない。
問題は
愛を分かちあうかどうかだ。
そうすれば恐れはひとりでに落ちる。
Osho - Come Come Yet Again Come
0 件のコメント :
コメントを投稿