科学は内から外を、靈性は外から内を観る。
自分という同じ窓から観る、別な方向の宇宙。
これが主観の世界のものの見方。
どの体験もそれだけでは鏡の花、水面の月。
客観だけでは紙の花しか作れない。
本当に触れ得るものはいつも、主観と客観の向こう側にある。
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【人は花にならねばならない】
One has to Become the Flower
外の花壇に薔薇が咲いているが、
それらの裡には、
目に映るものを
超えた不可視の何かがある、
そしてこの不可視の次元こそ、
彼らのまさに息づかいそのものだ。
現代文明は紙の花によく似ている。
可視なるところ、見た目どまりで、
それゆえ生命が通っていない。
不可視なるものとの絆を
喪失している。
そしてこれこそ、
人が以前には決してなかったほど
自らの根から切り離され、
かくもばらばらな理由だ。
樹木、葉、花、果実はみな
目に見える、
しかし、根は大地の下にある。
その根は未知の、
不可視なるもののなかにある。
目にし得る根が、
根のすべて、終わりなのではない――
そこには目に見えない別の根がある。
生が、普遍的な生と
結ばれている中心は、
未知であるのみならず、
不可知でもある。
不可知なるものと
つながった人間は、
本当の根に到達する。
不可知なるものは思考を
通じては到達され得ない。
思考の限界は、知り得る、
可視なるものにおいて終わる―
思考自体が知り得るもの、
見えるものだ。
そして目に見えるものは
不可視なるものを知るための
媒体にはなり得ない。
『在ること』は思考の彼方にある、
存在は思考を超越している
ゆえに、人は存在を
知るのではなく、存在となる。
人は、それから離れた
傍観者として、
それを知るようになるのではない、
人はそれとひとつに
ならねばならない。
思考を落とし、
静まり空となりさえすれば、
人には真理へ、在ることへ
人を押しやる非二元性が訪れる。
もし紙の花を見たければ、
それらを離れたところから見て、
鑑賞者になれる。
もし本当の花を見たければ、
人はその花にならねばならない。
【Osho「知恵の種子」】
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