反応と期待について*観想2




今日の言葉~。

できるだけ毎日書こうと思っている日々の内観チャネリングメッセージですが、二日目にしてすでに更新ぎりぎりです。



迷い多き自分への覚書。

今日のテーマは「反応と期待について」





観想(テオリア)2

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りゅー〉特定の人の言動に、いちいち不愉快な反応をしてしまうのはなぜでしょうか?





それはあなたが相手の反応に期待しすぎているからだ。



関係性が近い相手ほど、期待は一方的なものになりやすい。

あなたが望む役割を、相手が演じてくれないことに腹を立てているのだ。



家族ならば、親子ならば、恋人ならば、友人ならば。

そうやって相手に期待した役割を、当たり前に求め続ける。



知っているかな。当たり前とは感謝の反意語だよ。

関係性におけるパワーゲーム、その場合の期待とは、あなたの一方的な貸し付けだと思っている(自分はこんなにしてあげているのにという)、あなただけの基準で行われている取り引きにすぎない。



本当に互いの常識が、共通の認識の上に立っていると確認しあったコミュニケーションを取っているかな。

相手の考え方や価値基準にきちんと聞く耳を持っているかな。

常識とはある年齢までに培われた、ある個人の歴史に基づいた偏見の集合にすぎない。



相手の善意や愛情が、与えられて当たり前という考え方は、いかなる関係性においても傲慢だとは思わないか?

あなたが相手にそう感じるならば、あなたも本当はそうなのだ。

相手から何を得られるかばかりを主張して、それでいい関係を築き合えるかどうかを想像してごらん。



愛に基づいたよい関係性とは、互いに与え合う拡大循環を生むものだ。

愛はその源に限りがない。

それは与えれば与えただけ汲み出される、あなたに与えられた無限の源泉だ。



関係性において何を得られるかではなく、何を与えられるかを中心に、向き合い方を問い直してみたらいい。



期待に基づいた関係性が、拡大する循環を生むことはない。

期待は関係内に循環するエネルギーを、質、量ともに制限された状態に貶める。

愛を条件付けする。

「~たら、~のに」という言葉で与える愛を制限し、受け取りたい愛を取り引きする。



傷付いても与えなさいという言葉は、本当に目覚めた愛の在り方としての一つの言質だ。

それが愛ならば、こういう形を示し得るという、一つの指標だ。



何を得られるかを、関係性の目的にしているうちは、そこから真に得られるはずの恵みには気付けない。

愛を与えることのできる機会、それそのものが恵みなのだと気付いていられたら、主体的に愛を表現することによって、あなたは自身の源泉から、無限のエネルギーと愛を汲み出し、表現できるだろう。



愛は自身の意思から生じる、主体的な表現による創造行為だ。

だから期待なく、見返りを求めることなく表現された愛が、時に最も強い奇跡にさえつながるのは、決して特別な事ではない。

彼らは与えることそのもので、すでに与えられている。

母が赤ん坊に示す愛に、果たしてどんな期待があるだろうか。



相手の存在を、自分自身の延長のように大切に感じ、見返りを求めることなく愛を表現できたら、その時あなたは自身の源泉を通じてより大きな現実、より大きな自己に一致した存在に近づく。

自身の源泉とは宇宙の中心と同じものだ。

あまねく世界を満たす原理、その形、そのエネルギーを愛という。



できるだけ気付いていることだ。

真の恵みとは、与えられるもののことではない。

自らそれを創造する機会のことだ。



いかなる瞬間、いかなる関係性も恵みになりうることを忘れずにいれば、あなたは人生を恵みの機会とし、宇宙からよきものだけを受け取り、あなたの最高の可能性を、世界に表現することが本当にできる。



自分自身と宇宙を信頼して与えなさい。

ありたい自身の姿を表現し続けなさい。

求めるなら、より大きな自己として、自身と他者のための最善を求めなさい。



与えるほどに与えられる。

あなたが受け取り得る、最高のギフトになるまで与え、そして受け取りなさい。

それができるために与えられた場が、あなたの周りのあらゆる関係性なのだ。



愛を通して互いを見れば、それは反応ではなく、創造の機会としてのギフトになる。





愛しているよ。







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