先日、屋久島の旅より戻りました。
旅で得た素敵な出会いや、素晴らしい体験がたくさんありました。
全てをお伝えするのは残念ながら字数が多くなりすぎるので割愛しますが、一つすごい体験をしたのでシェアします。
今回は、今まであまり対外的には書いたりしてこなかった種類の情報を少し書きます。
行ってみるまで知らなかったのですが、屋久島にはとても古い時代の霊的な遺跡がありました。
そういう場所の名前を、ネットに大っぴらに出していいか計りかねたので今回は伏せておきます。
直接お会いする機会のある方は、私に直接訊いてください。
理解できない人や良く分からないという人も多いかと思いますが、そんな見方もあるのねという感じでニュートラルに受け取って下さると嬉しいです。
根拠が証明できない種類のお話なので、スピリチュアルとか超常現象とかちょっと苦手っていう人は、ここで止めるか聞き流して下さい。
<屋久島霊跡探訪記>
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その場所はある山の頂上付近にあった。
たくさんの人々が訪れる場所でもあるのに、それを言う人や、書かれたものが殆ど見られないのは、(知らないだけかも知れないが)多分普段は非常に巧妙に、次元をずらして隠されているからだろう。
そうでなければあれ程の磁場と霊性密度を持ったポイントが、殆ど知られもせずにいる理由が分からない。いずれにせよこんな場所は初めてだった。
実はご縁があって世界中呼ばれて行ってご神事をさせていただいたりしている。
しかしハワイやセドナ等の世界的なパワースポットでも、まれにしか出会えないような体験だったと感じる。
私の理解では、聖地というのは場所のことではない。
それは場所、状況、時間、人等の、様々な要素が絡み合い、その時開かれ、顕現することを許された細やかな高次領域の空間。
そこで立ち会う特殊な機会、そのものの体験のことだ。
ある時間や空間の交点で、その座標軸に生じる開かれた特殊なゲートみたいなものだと感じている。
だから同じ場所に行けば同じ体験ができるとも限らない。
おそらくその多くは、ただ眺めのいい、気持ちの良い場所くらいのものだと知られているのだろう。
〔ある領域の周波数帯によっては、そこに迷い込むとこちらの現実との振動数が違いすぎて戻ってこれない(少なくてもこちらからは見えない)こともあるかもしれない。多分それが神隠しと呼ばれている現象で、そういうところではだいたい時間という体験の密度が変わるので、いなくなった人が何年かして急に現れたりとかいう話は世界中に散見される。〕
その日は雨が降っていた。山に人は殆どいなかった。
その磐のある山が、一目見たときからなぜかずっと気になっていた。
この日にそこに登りなさいという直感の導きに従ったら、その日は雨だったのだ。
そういうことの理由はだいたい後から分かるので、私達は気にせず登ることにした。
山に入るととても感覚が鋭敏になる。
途中すれ違った登山者は一組だけだった。
山の教えてくれたチャネリング情報から、その登山者達とすれ違うことや、その人たちの着ている服の色、昼食を食べるのに適した岩棚が先にあることなどの情報を受け取っていた。
そして怖いくらいその通りだった。
自分の意識や、繋がっているセンタリングの感覚がとてもはっきり冴え、山の上に登るほど知覚が拡がっていくのを感じた。
道のりはとても険しかったが、不思議とそれほど疲れない。
苔に咲く花や、雨の洗い清めた樹の根がとても美しく輝いていた。
雨に濡れる森の道は、まるでとても神聖な生命の内側から、世界に触れ、また触れられているようでもあった。
森の植物の間では、自己と他者の境は曖昧で、生と死の境界も殆ど意味を持たない。
全てが溶け合い、等しくつながってそこにある。
自分という意識が個の体とその世界を形作っているのなら、彼等の姿は融合した植物と、生命たちの意識の形なのだろう。
理性によって切り分けられていない、意識と宇宙の本質がユニティであるなら、こういう姿を描き、形作るのだろうと思う。
その場所に至る道の途中、何度か次元(霊性密度)が変化していく感覚を得た。
神社の鳥居を潜った時に、なんだかここから空気が変わったと感じることがあると思う。
あれは霊性密度(Density)が変わったということだ。
自然界にはあれに似た、自然の鳥居、天然の結界が無数に存在している。
(多分、鳥居や結界というものがそもそも、自然の放つ高い磁場領域を、形霊や神聖幾何学を用いて固定化しようとした試みなのだと思う)
そしてある場所から、決定的に周囲の空気が変わった。
門を護るように大きな岩があり、その先に何か大きくて偉大な存在がいると感じられた。
そしてその樹はそこにあった。
とても古い、大きな杉の巨木だった。
きっと我々のこの文明が生まれる以前から、彼はこの場所にいたのだと思う。
ああ、このひとが呼んでくれたのだなと感じた。
私はその樹のことを勝手に、オジイチャンの木と呼ぶことにした。
まるで次元の門番のような、どこか懐かしい感じの巨石に触れたとき、一緒に行った連れのうちの一人は立ち止まり、感極まったように急に泣き始めた。
彼女の前世に所縁のある波動を感じて、ハートが動いたようだ。
当時まだ宇宙人として地球に入植して来たばかりの時、この場所に彼女のソウルグループの文明が根付き、この遺跡を造ったというイメージを見せられた。
そして彼女も、そこに自分も属していたことを思い出したようだった。
その場で受け取ったチャネリング情報によれば、そこは約58000年前に地球に入植してきた、宇宙人達の文明由来の自然遺跡で、ピラミッドのような霊的な磁場を発生させる場所だった。
次元のポータルゲート、あるいは通信や転送装置のような役割を果たすものらしい。
同様に、約32000年前にも別なソウルグループの人々によって、ここは重要な意味を持つ場所として扱われていたようだ。
そのような宇宙人達や、高い霊性を持った古代人たちによって、屋久島には過去6度、高度な文明が存在したということである。
実はその山の下にあるピラピッドの周辺には、一万人規模の人々が住む、今も存在している宇宙船があるようだった。
これらは位相の違う領域に重なって存在しているらしく、巨大な磐の中にも高次元体のエーテルボディで存在している人達が多くいた。
ヴィジョンでは彼等は光の柱が踊るような姿に見え、友好的で歓迎してくれているように感じた。
彼等はこの島には、ここと同様の霊的に重要なパワーを持つポイントが、全部で7つあると教えてくれた。
そのうちの一つは物理的な身体を持つものは訪れることはできず、さらに2つはまだ開かれていない。
私たちが訪れることの可能な場所は、ここの他にあと3つあり、その大まかな位置と方角のヴィジョンを頂いた。
いずれ時間をかけて探してみたいと思う。
そこから先の景色は、とても古い遺跡の上に、自然の植物たちが根を張り、雲の棚引く世界の中に浮かび上がるような不思議な場所だった。
本当にラピュタがあるとしたら、きっとこんな景色なのだろうと思う。
雨に濡れた身体が冷えて、さっきまで震えながら歩いて来たのに、その場所から先は温度を殆ど感じなくなった。
とても不思議な感覚だったのだけど、本当に暑くも寒くもない。
薄い霧と雨が景色をぼんやりと白く染めて、いくつもの雲の筋が音も立てずに、目の前を静かに棚引き、ゆっくりと流れていた。
そこは時間がほとんど止まったような、不思議な空間だった。
ある場所から先に進めなくなり、周囲を探索していると、不意に雲と白い霧の中から、その巨磐が圧倒的な畏怖をもって立ち現れた。
私たちはまるで招き入れられるように、自然に足がそこへ導かれた。
何故だか分からないが、そこに立ち会うことを許されたように感じられた。
自然の中に神の存在を見出し畏怖を覚えた、かつての古代の人々と同じ気持だったように思う。
その場の空気の神聖さに気圧され、とても写真を撮ったりする気にはなれなかった。
温度の分からない霧雨の中、私は不意に身体から熱いものが溢れて来て、上着を脱いだ。
宇宙語の歌と祈りが口をついて溢れ、私はその巨大な岩に向かって祈りを捧げた。
その声は懐かしい再会を確かめ合っているようにも聞こえる。
自分の内側から溢れるその声を聴きながら、この祈りはまるで、孤独なクジラや狼が、遠くの仲間に向けて放つ言葉のない歌のようだと感じた。
離れがたい気持ちのまま、私達はその場所に別れを告げた。
帰り際オジイチャンの樹に再び触れたとき、不意にハートが開くのをはっきりと感じた。
ハートから愛が溢れ、見える景色や、全ての生命の輪郭が皆はっきりと美しく見える。
すべてがとても愛おしく感じられた。
ハートが開くというのは、こういうことだという感覚を思い出す。
人生の重要なポイントで、私はいつもこの感覚を取り戻してきた。
今回のこの感じは忘れてはいけないと思った。
全てが溢れる愛を通して見えるとき、すべてのものが繋がっているのが感じられる。
それが「空」(くう)ということだと唐突に理解した。
ああ、こういうことか。
これで全部解決できる。
他に何も必要ない。
つまり空で愛で瞑想だ。
そう思ったのを覚えている。
・・・・・・
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そして山を下り、東京に戻ってからその瞑想的手法を用いた空(くう)のヒーリングワークをつくりました。
次の記事でちょっとその紹介をさせてください。
『天庭(そらのにわ)』
ちなみに屋久島霊跡探訪リトリートツアーをこの夏秋あたりに企画中。
詳細まとまったら、またお知らせいたします。
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