共感する能力の高い人というのは、その力に比例して逆に自他の間に境界線を設ける能力が高いという研究結果があるそうですね。今回はそんな感じのお話。
珍しく怒りを伴うような苛立つ案件があって、これはどういうことなのだろうとその感情を掘り下げてみていたら、とても府に落ちることがあった。
以下は自身へのメモとして残す内的対話(観想・テオリアと呼んでいます)の覚書です。
結論から言うと、自分を大切にするということは思いの外重要で、それはあらゆる優しさや受容のベースになるスペースを確保することなのだ。
だから適切な境界線を敷くことは、一見相手を拒絶するような、優しさの反対のような線引き行為に思えるのだけれど、実はまったく逆で、適切な境界線を敷き自分の領域を適切に守ることができるという認識こそが、最も優しい存在足り得る必要条件なのだ。
自分が守られる価値のある大切な存在であるという認識はとても重要だ。
それは他者愛のベースになる自己愛を形造り、さらにその人がどのような宇宙に住むのかという、外的世界への基本認識をデザインする。
ともすれば自分の怒りは相手の存在や行為によってもたらされると受け取りがちなのだけれど、心的現象の基本構造は共鳴なので、それは自分が見ている自身(の住む世界)への基本認識を投影したものに過ぎない。
(そしてそれと同じテーマを持った存在との共鳴による共同創造によって現象化したものに過ぎない)
自分が本当に大切で、守られる価値があると本当に信じることができるならば、世界はあなたをそのように扱う。
あなた自身が自分(とその住む宇宙)をそのように扱うからだ。
つまり自分というものの内的世界と、自身を取り巻く外的世界の間には、本質的、実際的には差異はない。
あなたはもう一人の私であり、私はもう一人のあなたである。
私という現象、私を取り巻く宇宙(外的世界)は、私自身の信じる私への価値と扱いの反映だ。
私を不当に扱い、その価値を尊重せず、侵食侵害する者が現れているならば、あなたは自分自身を実際にはどう扱っているのかを知ることができる。
だからそのような存在が現れたなら、それは自身に対する適切な価値と、エゴからではない本当の自己愛を表明するチャンス(あるいはチャレンジ)だ。
自身の内的宇宙に対して深い愛と受容に至るならば、私たちは外の世界に対しても同質の理解と愛を得ることができる。
そのとき与えることと受け取ることは本質的に同じことになる。
自己と他者という境界線が必要なくなることが愛の本質だ。
内側も外側も同じものだという理解が、自己と他者に対する受容と愛を生む。
適切な境界線を敷くことが、境界線の必要ない世界を創るための始まりなのだ。
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