お世話になっている屋久島の友人のお家からは海が見える。
まだ誰もいない朝。
庭で光を浴びていたら、祈りのような唄のようなチャンティングが溢れてきた。
ただ自分の奥からやって来る声と、唄を聴く。
ただ自分の奥からやって来る声と、唄を聴く。
それは賛美歌のようなメロディで、まるで何処か聞いたことのない星の懐かしい唄のようだった。
体がゆっくりと自然に動いて、空や大地や風の中に交わって一致しようとする。
太古に祈りや舞が自然に生まれた瞬間は、こんな感じだったのだろうなと思う。
朝の光と風が美しく豊かなままだったので、そのまま予祝とセルフワークを行う。
「怖れを手放して生きたいのなら、身体としてではなく、魂として生きなさい」
という言葉が降りてきた。
そうか、怖れは魂ではなく体に属しているのか、と腑に落ちた。
怖れは自分自身を保存しようとする、エゴと構造体の自然な反応。
しかし魂は変化し続けようとする。
自身の本質のあらゆる可能性を体験しようとする。
人生の可能性を最大化しようとすれば、怖れを手放して魂に従うしかない。
それがゆだねるということ、信頼して在るということ。
光を浴びながらセルフワークを行っていたら、体という器に魂が入り込んだ時に覚えた、窮屈な閉じ込められた感覚を思い出した。
それは一種のバース(生誕)トラウマで、人の持つ根源的な死への怖れの原型なのだろうと思う。
その枠組みの怖れを越えて、自覚的に選択し続けることが、スピリットとして自立して生きるということなのかもしれない。
自分から何も選ばなかったとしても、世界は変わり続けていくから、何かを選ぶ時にはちゃんと自分の真ん中にいなくてはならない。
正解は分からなくても、選び続ける事でしか人は幸せになれないのなら、きっとその繰り返しこそが生の営みなのだと思う。
それはとても美しいことなのかもしれない。
それは一種のバース(生誕)トラウマで、人の持つ根源的な死への怖れの原型なのだろうと思う。
その枠組みの怖れを越えて、自覚的に選択し続けることが、スピリットとして自立して生きるということなのかもしれない。
自分から何も選ばなかったとしても、世界は変わり続けていくから、何かを選ぶ時にはちゃんと自分の真ん中にいなくてはならない。
正解は分からなくても、選び続ける事でしか人は幸せになれないのなら、きっとその繰り返しこそが生の営みなのだと思う。
それはとても美しいことなのかもしれない。
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