ある医師が言うには、意志が弱い人は鬱病になれないという。
二十数年前、会社勤めを辞めたとき「ヘタレの薦め」という言葉を思い付いた。
以来逃げるべき時には逃げるというのを実践していたら、仕事で心身を病むということは全くなくなった。
心が焼き切れる前にヒューズを設けよというこれらの主張は、主観的には概ね正しい。
肉体が魂の乗りものであるという見地があるが、人間というアバターには神経学的生理学的限界がある。
非常によく出来た器ではあっても過信すべきではない。
自身が壊すこと、壊されることを許せばいつか壊れる。
「気分屋的に生きれば、気分は安定する」というのも蓋し名言。
心を病む人に伝えておきたいことは、他人はあなたの人生に責任は取ってくれないという事だ。
それはたとえ親に対してであってもそうで、他者があなたに何を期待しようが、どんな評価をあなたに抱こうが、それらはあなたの本質的な生の価値とは一切関係がない。
存在の質から無条件に溢れてくるものだけが愛だ。
あるべき形(の愛)なんてものもない。
そういうものは大抵自分自身を傷つけて、且つ相手を依存させるか共依存を生む。
だからこれは自立と自律のテーマだ。
語弊を恐れずに言うなら、自立とは対外的にちゃんとしろとか正しくあれとかいう事ではない。
僕の感覚的には、自立とは猫みたいな状態だ。
それぞれが気まま気まぐれに生きていても、コミュニティ社会全体に不思議なバランスや調和が勝手に生じている。
愛したいときに愛したいだけ勝手に愛している。
他者への期待にそれほど振り回されない。
他者からの期待はそもそも聞いていない。
生きたい様に生き、死ぬべきときにすら逆らわない。
期待や執着から完全に自由だ。
そういう生き物同士だと、意外に何の問題もなく物事が回るものだが、不安をベースに組まれたシステムは、他者からの搾取を前提としたパワーゲームであるため、自己完結統合した独立系をその中に組み込めない。
現時点では自分が削り取られ壊れるか、異物としてシステムから弾き出されたアウトサイダーとなるかしかない。
マジョリティが自分に居心地よい生き方を選ばないというのは、猫達には理解に苦しむことだろう。
搾取と隷属の構造を孕みながら保たれる、保守と安全に偏った相互依存社会は果たして持続可能なものだろうか。
万人がそうすべきなどと言うつもりは全くないが、少なくとも私達は自身の心からの選択を、もう少し取り戻してもよいのではないだろうか。
完全に安全な自由なんてものは何処にもないのだ。
我々は常に未知なる道しか歩けない。
そうでなければ、誰かがあなたに歩けという道を歩くことになる。
リスクを回避するために自分の選択を明け渡すなら、それは隷属だ。
自ら奴隷となる者には自由の権利はない。
最善解などそもそもないと知ればいい。
今ここにある快不快と身体感覚を元にすれば、少なくとも現時点での最適解は得られる。
それを積み重ねて、やってくる体験に逆らわず、瞬間を楽しみ味わい尽くす以外に、私達に出来ることなどあるだろうか。
生命に目的はない。
プロセスそのものが目的だ。
だから生命は文字通りライブなのだ。
それはつまり遊びということだ。
「真剣にやれよ!仕事じゃねぇんだぞ!」とはタモリさんの言葉だが、本気になれないものに本音はない。
本音でなければ本気にはなれない。
言葉と心と行動が一致していれば幸せになれる。
だからシンプルに真っ直ぐ生きればいい。
良く生きたいなら、万難を廃し本気で人生を使って遊べ。
先程も夢中になって野苺を摘み、そこにあるだけ食べ尽くす子供の様子を見ていたが、あれこそが生命の姿だろう。
今ここの体験を最大化して味わう事だけが、常に私達の最適解なのではないかと思う。
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