縄文杉に行かない理由


屋久島に住んではいるが、縄文杉を見に行ったことがない。
元来ひねくれものなこともあるが、特に特別な興味が湧かないのだ。
ふとなんでかなと思って考えていたら、こういうことなのではないかという喩えに行き着いた。

もしあなたの頭の、ある髪の一本を指して、「これはあなたの頭髪のうち、現在もっとも古くから存在している一本です」と誰かに教えられたとしたらどんな気持ちか。

ふーん、そうなんだ、とは思うだろう。
あるいはまぁ抜けるまでは大事にしようと思うかもしれない。
しかし額縁に入れて飾っておこうとまでは思わない。

多分特別なことにはしたくないのだ。
あの人たち(杉・植物)は地球の頭髪で、人間はその体に流れる赤血球みたいなもの、と思っている。
同じ巨大な生命体に属する部分、対等な役割を持った同士だ。
愛しさや親しみはあっても、遠くにある異質な何かではない。

自分から切り離されたものがあると想定すると、世界は遠くなる。
神(髪)が遠くにあると思っていると、自分の中に見ることができない。

全て意識の中にある。
自分の中には、縄文杉の中に流れている生命の力と、同じ源から来た力が流れている。
僕らは同じ幹から派生した枝葉の末端同士だ。
あの巨大な樹の生命と私は、その源で繋がっている。
自分の中に繋がる無数の自然を見つけられたら、きっとそれはとても豊かなことだと思う。

ある一つの細胞の中には生命と宇宙の縮図があるらしい。
私たちの身体を創っているもの、私たちの現実を創っているもの。
体験する三次元世界は、全体の部分としての現れだ。
それは片側の隠された砂時計の様に、大き過ぎて見えない世界に在るものを、そのまま落として見せる。

内に外に、触れることの出来る宇宙を持っていたい。
だからきっと会いには行かない。


ま、そうは言っても、裏庭にあったらもちろん会いに行くのだけど。
そんななまけものの言い訳。






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