お金に愛されて循環の中に入るということについて考えていたら、すごいことに気付いちゃった。
もしお金に愛されている人がいるという前提に立つなら、その人はお金を愛してもいるだろう。
そして真に愛している者は、その対象に自由を与え手放せる。
花を好きな者は花を摘み部屋に飾るが、花を愛する者は愛したまま摘まずに野に置くように。
愛は必ずしも自分の手元に無くていい。
愛するものが最も活きるように手放していられる。
この、愛したまま手放していられるという部分が鍵だ。
欲しいから、必要だから求めるのではなく、ただ愛している。
そして愛されていることを知っている。
絶対的な信頼と自己受容。
愛されている確信は、対象からの愛ではなく、自身の自己受容の度合いに依存する。
自身とその現実を肯定して受け入れているのなら、自分は宇宙に愛されている確信を持てる。
その時、愛は内から溢れ与えるものとして対象に注がれる。
そこには返報性を期待することなく、等価交換でも取引でもない関係性が生まれる。
それは対象との双方向の関係性ですらなく、より大きな宇宙の循環構造の一部としての在り方になる。
自分と宇宙が一連なりの構造に含まれるため、愛している対象との間に取引関係を必要としない。
自己受容は自分を宇宙に開いて在ること。
保証を必要としない信頼。
お金は結局、エネルギーの循環構造だ。
お金に愛されているとは、未来に対する保証を必要としない信頼、即ち自己受容と自己肯定の状態。
信頼は感謝を生む。
つまりその状態であるかは、感謝が心に溢れているかどうかで識れる。
お金を愛しているとは、愛したまま期待を手放して循環を宇宙にゆだねている状態。
愛し、お金に愛されていることを識っているから、お金が手元にあることに執着しない。
常に十分に大きな循環があることを理解しているから恐れがない。
つまり、お金の循環=愛だ。
お金の有る無しは、その一時的な状態に過ぎない。
焦点を当てるのは、愛の状態であるかどうかだけだ。
自己受容と自己肯定、信頼と感謝だけが、お金の循環と宇宙との関係を維持する。
それがつまり、お金に愛し愛される方法である。
補足するなら、許しと愛も同じものと言える。
生きることは、自分で前半積み上げた拘りを脱いで、そうであった元の本質を思い出すこと。
変化し続けること。
そしてそれを味わい続けること。
許せないのは、外的な環境や対象に変わることを望むから。
自分は変わらずに、周りをコントロールしようとするから。
その拘りを、自分の中で一つ一つ解いていくことが許すこと。
許して自分が変化すれば、大きな愛と一体であった状態に近づく。
一つ一つ手放して、すべてが愛になる場所へ向かう、私たちはきっとその長い旅の途中。
信頼することは、自分の描いた世界を受け入れること。
だからそこに曇りがあってはいけない。
自分自身の真ん中に、曇りがないように生きること。
それが曇りのない世界に生きることにつながる。
自分にウソがなければ、開いて生きていられる。
出来るだけ、ウソを手放す。
中途半端な我慢をやめて、まず本音を生き切ってみることだ。
そうすれば怖れなくゆだねられる。
ゆだねたら、我を超えて全体のために仕事が出来る。
それはとても穏やかで、密度が濃くて、ただ愛でいられる暮らし方だよ。
本当に必要なことはとてもシンプルだ。
気楽に変わろう。
自分とこの世界を愛そう。
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