素晴らしい台風だった。
いつまで見ていても飽きなかった。
島内に住む人が、ここ20年くらいで最大規模だと言っていた。
昨年は台風らしい台風が来なかったので、私達家族は事実上の屋久島初台風の洗礼を受けたことになる。
情報によると、ちょうどうちのエリアの真上を通過したようだ。
天災の類はなるようにしかならない。
ある程度備えたら、降伏して楽しむ他ない。
案の定、何度か停電が来た。
幸いガスと水道は使えるようだ。
停電自体は島ではそれほど珍しくはない。
今回はあちこちで断線したのだろう。
復旧に丸一日を要した。これは初体験。
ワクワクする。
イレギュラーやアクシデントはスパイスみたいなものだ。
日常が非日常と背中合わせだと思い出せる。
まったくもって静かな夜だった。
冷蔵庫や浄化槽攪拌モーターの駆動音など、普段止まることのない音まで止まる。
雨戸を閉め切り、風の鳴く声を聞いて、蝋燭で飯を食う。
ウォールデンの森の生活とはこんな感じだったのだろうか。
嫌ではなかった。
精神の豊かさは、何を持つかではなく何を持たずに済むかで計れるという。
ミニマリストを目指しているわけではないが、余分を剥いで、自分にとって重要なものだけを生活の中心に据える生き方は、とても満ちたりたものであるだろう。
朝の太陽礼拝を習慣にしてから心身が充実しているので、依存になり得る生活の贅肉を省くことに執着がなくなってきた。
とはいえ、電気がなくて家から動けなければ子供は退屈する。
ノートパソコンの充電が生きているうちに、映画でも見ようということになった。
嵐の中で観るラピュタの臨場感は格別だなと思う。
今真上には、最大規模の風と龍の巣。
その低気圧の中心に何があるのか、未だ誰も実際に見た者はいない。
ところで作中よく知られている女海賊の名言に"40秒で支度しな!"という台詞がある。
何故40秒なのかご存知だろうか。
40秒は人間が一呼吸で行動出来る活動限界と言われている。
つまり一呼吸のうちに今までの生活の全てを捨てて、二度と帰れぬかも知れぬ冒険に出る準備をしろと言ったのだ。
その呼気の内に一度死ね、この瞬間生まれ変われと。
40秒で少年が取った行動は、亡き父から受け継いだ情熱の象徴であるゴーグルを被ることと、世話していた鳩達のカゴの鍵を開けたことだけ。
僅かでも思考に躊躇があれば、そうは動けない。
自分には着の身着のまま自身を委ねて、運命に飛び込むことが出来るだろうか。
物語が始まるのはいつだって突然だ。
全部手放したままで、すべて愛していたいと願う。
台風の浄化力は素晴らしい。
木の葉が半分ないと見慣れた景色も透けて見える。
風通しは言うまでもない。
妻のやっている大地の再生という技術の中に、風の草刈りという技がある。
曰く、風が草を刈るように刈るのだと。
それをつまり大規模にやるとこういうことなのかと合点がいった。
人間から見れば痛々しくも見えるが、台風後の自然は生まれ変わったように葉が輝いている。
生命の何かを揺さぶられて、沸き出した力が、世界を再構築させようとしているように見えた。
自然は本当によくできた仕組みだ。
個体の命や我を超えた処から見ることができるのなら、台風や嵐は非常に完璧な代謝といえる。
アポトーシスで失われる細胞は、果たして自ら命を差し出したのか。
多分、より大きな構造体から見たときに、一細胞の我を超えたところから為される選択というものがあるのだろう。
それは、私達は誰かという本質的な問いかけを示す。
自分自身という認識の外側に、より大きな総体の一部としての自己があるなら、その一細胞として生きる個体の人生はある種の夢のようなものだ。
あるいは何処までが夢だったのか、それは自己の認識の幅に拠るものとなる。
たとえば地球と人の関係は、人とその体内の乳酸菌の関係と大きな違いはない。
当然私の中に生きる乳酸菌の自我は、私の自我と同一ではない。
その菌がそれ自身のために生きようが、より大きな私のために生きようが、おそらくそれも重要ではない。
だから生命とは、入れ子構造のそれぞれの階層を含む、自我の総体の事だ。
その自我ですら、ある視点から見た夢に過ぎない。
あの猛烈な台風ですら、地球という生命の部分的な風邪みたいなものなら、我等乳酸菌の喜びや夢は、その気まぐれなくしゃみで一瞬にして吹き飛ぶだろう。
自我が小さくなれば、恐れは意味をなさない。
いつ吹き飛ぶとも知れぬ命なら、喜びと共に冒険して、笑い飛ばして過ごせばいい。
多分それが正解だなと、過ぎていく台風の跡を見ながら思う。
きっと、一呼吸で支度出来るくらいの軽さでちょうどいいのだ。
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