薄明に思う


薄明。

境界を薄く解かして等しく守り包む、夜陰の優しい闇も好きだが、時の始まる前のこの移ろいの瞬間が、世界のもっとも美しい時間だと思う。

本当に美しいものは残せないもの。
だから残されたものにはすべて、小さなウソが含まれている。

変わり行くものが、変わり行くことの中にしか受け取れないものがある。
美しいものがいつも、ほんの少しの悲しさを含むのは、私達は世界を愛したまま、それを永遠に留めておくことができないから。

私達は自分もまた移ろうものであることを認め、その流れの中から共に移ろうものを愛することしかできない。
だから世界に参加することは、所有を手放すことだ。

永遠に触れているのは今だけだから。
今を手放し続けること、移ろい続けることが永遠の本質だ。
それを留め置きたい、観察者でいたいと思った瞬間から、私達は移ろう世界に参加できない。

慈悲は愛の最高の形だという。
悲しみを慈しむことが慈悲なら、それはこの少しの悲しさを含む世界を愛することそのものだ。

だから愛は、世界に参加すること。
愛することも愛されることも、共に世界の一部になることだから。

移ろいゆく体験に留まり続けるなら、構えや備えを解く必要がある。
未知が体験の本質なら、恐れに飛び込むことでしか今を味わうことは出来ない。

何もない、何ものでもない自分でい続ける。
ただ愛し、味わい続けていること。

所有は思考に属している。
思考でない体験に留まることは難しい。

自分のストーリーという思考を手放すことは、なんだか少し淋しい。
外側の世界と、過去の中にしか、私達は自分を探せないから。

だから永遠に触れられる今を、私達は触れずにただ眺めている。

私達は自分の物語の読み手ではない。
常に白紙のページを前にした、書き手だ。

物語はただ現れるが、私達はその一つ一つを味わい、選択し、書き連ねる。
だからその物語はすべて、私達の選んだもので出来ている。

願わくば美しい書き手でありたい。
この世界を描いたある視点の物語が、開かれた体験を怖れずに、真摯に受け取り、与え続けられたものであることを願う。









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