生を外注しない


田舎暮らしはいそがしい。
午前中の仕事がリスケになったので、その時間を庭の琵琶の実に袋をかける作業に充てる。

三分の一ほど終わったところで午前中が終了。
思うところがあったのでメモとして、お昼休憩中にこれを書いている。

都会ならスーパーで琵琶のパックを買えば済む話なのだろう。
田舎暮らしがいそがしいのは、都会なら意図せず外注されているこれらの生産作業コストを自分で行わなければならないからだ。

おそらく今日の午後残りの作業をして、概算で100枚くらいの袋掛けをすることになると思う。
それでも高所の琵琶には手が届かないので放置されることになるだろうし、すべての果実を覆えるわけではない。(これらは猿や鳥のエサになり、自然循環に還っていく)

そしてあの袋1~3つくらいで、スーパーの琵琶パック一つ分にはなるだろう。
一、二時間の作業に対する費用対効果としては絶大だ。
しかもこれは庭に最初から生えている、たった一本の琵琶の木から採れるものだ。

豊かさについて考えてしまう。
自分の庭や近所で採れた果実が食卓にあふれ、しかもほぼ無料に近いコストで食べれれるということ。

「田舎暮らしはいそがしい」という言葉を、あえて「忙しい」と漢字で表記しなかったそういのには理由がある。
心を亡くす作業ではなく、豊かにする作業だからだ。
ではりっしんべんに豊かという字はないのかと思って探してみたら「愃」という字があることを知った。
意味は「ゆたか。ひろい。心が広い。心がくつろいでゆったりしている」ことらしい。
忙しいの代わりの字としては、こちらの方がふさわしい気がする。

生きるために必要な作業を外注しないというのは、実はとても大事な秘密なのかもしれない。
都市生活は嫌いではなかったが、長く続けていると、自分が何処にも着地していないような気持ちになる。
椎名林檎の歌の中に「東京は愛せどなんにもない」というフレーズがある。
あんなに何でもある場所なのに、ほしいものはなんにもなくなるのだ。
それが自然の中で作業すると、いとも簡単に充足する。
都市生活での人間のニーズは結局、自然の代用品なのだと思った。

自分は不器用な方なので、色々ゆっくりとしかできないのだが、島の友人たちの持っているスキルには凄まじいものがある。
自分で家を建てちゃったり、パティシエ並みのスイーツが出てきたり、野草や花を蒸留や加工して必要なものを作ったり、服を染色して創作したり、陶器を焼いてみたり。
自然に畏敬を表して祈り踊るような、形にならないものも多い。

そういう豊かさに触れるたび、自分が正しい道の上にいると感じられる。
少なくとも自分にとって正しい方向を向いているという実感が、人を地に足を着けさせるのだと思う。
その道をまっすぐ歩いていけば、いずれ身に付くものもあるのだろう。
でも詰まるところそれはただの結果で、大事なのは何を大事に思い、日々をどのくらい丁寧に暮らすかという、ただそれだけのことなのだろうと思う。

そんなわけで、そろそろ午後の作業に復帰しようかと思います。
皆さまも良い午後を!







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