No border


真夜中にSOSのメールを受け取っていたみたい。
今朝は何故か朝四時に起きてそれに気付いたので、まだ暗いデッキに座って遠隔ヒーリングを行った。
ふと、なんで天使や精霊達って助けてくれるのかなって思ったら、インスピレーションが来て教えてくれたのでメモしておく。

もし私達が一つの大きな生命の一部であるとするなら、人間はその中を流れる一つの赤血球みたいなものだ。
個として存在しているように見えるが、実際には独立した個としては在りえない。
生命の一機能の形状として、生まれたり消えたりしながら存在している。
その中で例えば一つの白血球が一つの赤血球を個として助けたりしているわけではない。
より大きな生命としての自然なバランスやホメオスタシスの中で必要が行われた結果、最適が為されているだけとも言える。

自分から分離した状態の体験を選択しようとしなければ、基本的には生命はより上部構造の一部としての最適化された状態に帰属する。
鬱病になった赤血球や野生動物がいないのは、その意識が分離体験の視点(エゴ)を選択しなかったからだ。
個としての生命や禮(れい)は、フラクタル(入れ子)構造のどこかに意識の視点(焦点)を置いている。
フラクタルの下部構造は上部構造の一部として機能する様に織り込まれているし、上部構造は下部構造を支え、さらにその上部構造を互いに支えている。
生命は無下限、無上限に続く壮大な意識の織物だ。
個としての生命はそのどの部分を切り取って体験するかという視点なのだ。
だから、神は切り取られなかった無限の視座の総体の名に過ぎない。
私達もまたその一部を支える一つの細胞なのだ。

つまり天使はより昇華された意識視点であるが故に、分離され切り取られていない状態としての私達を見ることが出来る。
より大きな生命の自然に従うなら、傷があれば自然に癒されてしまう。
その巨大な意識や生命のシステムがUnity、一なるもの、統合された状態、つまり愛と呼ばれるものだ。
愛という言葉に違和感があるとすれば、そこに個としての情みたいなイメージが付帯するからだ。
愛は本来、個に属するものではなくベクトルさえ持たない。
自分が全体の一部であることを知っている感覚、それ故に他者を通して一体である生命が循環して生じる、完全な全体性の感覚だ。

ホー ミタクエオヤシン
「私につながるすべてのものたちよ」
(ラコタ族の祈り)

あなたはもう一人の私という感覚は、ヒーリングの根幹だと思っている。
分離したり、一つになったり、多分本当は私達が自分だと思っているものの境界はひどく曖昧だ。
本当は境界はないということを、私達のエゴは受け入れられない。
エゴの死と自分の死が癒着している。
エゴがなくても生命は続くということが、ひょっとしたらこの世界の最大の秘密なのかもしれない。

自分と全体の行ったり来たりを楽しめるようになれば、本当に軽やかだろう。
自分がこの美しい世界に属しているという感覚は、非常に深い自己信頼を作り出す。
本当は世界を自分が生み出している。
世界は私達が体験したい視点の焦点だから。


自由=愛=自分=宇宙
体験的理解はある種、詩的な認知方法で、だからこそ科学的な思考によって引かれた線を容易に跨いで本質に至ることが出来る。
この体験にどのくらい深く向き合い潜れるかは真善美に属することで、現代では芸術や哲学の領域とされている。
おそらくは他者と共有しづらいからだ。
独りでしか至れないからこその孤高でも、美が伴うなら分けてあげられる。
本当のことは、いつもシンプルで綺麗だ。
だから本当のことを語る言葉は詩的にならざるを得ない。

深く息をする。
呼吸によって世界に繋がる。
吸う息と吐く息。
酸素はいつ、私達の身体の一部になるのだろう。
カラダを巡り、また外に出て。
食べものはいつ、私達の身体の一部になるのだろう。
組み替えられた元素たちが、身体の内と外を自由に出入りして。

本当は自分の境界線は国境みたいなもので、頭の地図の中にしかない。
そういうことにしておこうという決め事。
私がいるということは、切り取られた部分に名前をつけられただけの決め事。
その線は跨いでもいいのかもしれない。
形を変えてもいいのかもしれない。

自分がそういたいだけの自分でいることにしよう。
そう決めたら、世界はそれに合わせた形を与えてくれる。

No border.










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