一滴の中の大海


"あなたは大海の一滴ではない
一滴の中にある海全体なのだ"

ルーミーの言葉が刺さったので、今日は午後の予定を変更して少し記事を書くことにした。


我々の個存在としてのスピリットの生体験を語るとき、しばしばそれは切り離された雫のように喩えられる。
天から落ちた雫が美しいのは、その限られたほんの一時の内に、世界の全てを映して光ることが出来るからだと思っていた。
その天から切り離されている一時の間は、自分が巨大で完全な水の循環の一部であったことを忘れて、スカイダイビングを楽しみ今を感じて生きる個の時間だから。

だけど本当はそれすら違うのかもしれない。
私達は切り離されていたことなどない。
私という存在が海から切り離された一滴ではなく、一滴の中にある存在の海の全体であったならば、その体験する世界は海そのものの見ている夢だ。
壮大な、無数の魂の一雫達から成る、ある一つの海の見ている夢。

心はそれが真実であることを知っている。
導き出された結果が奇妙なものであったとしても、そこに美や調和を孕むならば、それは真理の一端であることを示している。
魂は論理を超えて真実に届く、本質に至るための磁針を備えている。
それは本来、詩や音楽やアートの役目だ。
見えない本質を形にすることに、人の魂は震えてしまうから。
美は全なるもの、真なるものに対する感受性だ。

本当のことは客体化できない。
主観と体験の中でしか触れ得ない。
共有できるものは皆夢だから。
現象が夢であるなら、真実は潜象の中にしかない。
それはまだ形になっていない可能性の全て。
"空"と呼ばれるもの。

意識が思考の向こう岸まで行って戻ってきたとき、ようやく現象をありのまま観ることが出来る。
実際には彼岸と此岸すら思考の中にしかない。
そして私達の体験する世界が夢であっても、この生に価値がないわけではない。
むしろこの一時の夢こそが、切り離された(様に見える)我々の存在する意味だ。


だからおそらくはただ体験し、清濁味わい尽くし、悦び悩み愛する以外に生の意味はない。
マンジャーレ、カンターレ、アモーレ
(食え、歌え、愛せ、それが人生だ!)
と言ったイタリア人は正しかった。

タロットを輪にして順番に並べたとき、最初のフール(愚者)と最後のワールド(世界)が横に並ぶのは偶然ではない。
世界の二週目は削ぎ落とされて無垢になるからだ。
私達の理解は、輪ではなく螺旋状の立体構造だから、螺旋階段が上がるごとに視座は高くなる。
そうすれば、かつてあった囚われていたものにはもう煩わされなくなる。

それでも葛藤から自由になるためには、体験を一周する必要がある。
だから体験の清濁、禍福は選べない。
選べないことが我々を自由にする。
ゆだねることと信頼することでしか、見つけることのできない道があるからだ。

その半分は天使や聖霊達の仕事。
我々が行動だけで打破出来ることは案外少ない。
出来ることは最良を願い、期待して待ち、疑うことなく最善を尽くすこと。

知ること、理解すること、選ぶこと、味わうこと、それらを咀嚼して腑に落とすこと。
そして視座を上げることが成長だ。

なら楽しみながら遠くまで行こう。
この道も悪くないと思えたら、新しい螺旋が始まる。
まだ見ぬ高みから見ることが出来たなら、歩いて来た道のりの暗い曲がり方さえ、愛しく思えるときが来るのかもしれない。
全てが愛に変わったとき、きっと私達の魂はまた、源の海に還るのだろう。







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