火を焚く 舟を漕ぐ


火を焚けるように三日かけてファイアプレイスを造る。
うち二日は草刈りという名の開拓作業。
野生の島を開拓するなら生傷は致し方ない。
その甲斐あって家で焚き火が出来るようになった。


澳火を眺めているときのあの心の謐けさはなんだろう。
明らかに遠い時代の人々と同じ何かを共有している。

かつて人が感じた想いの全ては消えずに、水の波紋のように宇宙に残されているという。
僕らの中に静謐が生まれるとき、ほんの束の間それに重なることができる。
それはきっととても聖なることだ。

Holiness(聖なること) Wholeness(全体性) Healing(癒し)の語源は共にHOLOS、一なるものへの回帰だ。
人類には時を超え空間を超え、共有している意識帯がある。
火はきっとそれに繋がる扉なのだろう。

奇しくも屋久島の詩人、山尾三省が「火を焚きなさい」という詩を遺している。
野生は人の最も根源的な感覚に近づくため、辿られるのを待つ古道だ。



ところで先日カヤックが二艘うちにやって来た。
こういうものがさらっと意図せずにやってくるのは島ならではという気がする。
自分が舟を所有するとは考えたこともなかったが、後先考えないのも悪くないものだ。
たしか昔自分が書いた、人生で達成する百のリストの中に、ユーコン川を一カ月かけてカヤックで下るという項があった。
残された時間の方を数える年齢になったのを考えると、そろそろ練習する時が来たのかもしれない。

火を焚くのも舟を漕ぐのも、人の源流へと本能をなぞる行為に見える。
茫漠とした圧倒的な自然宇宙に自分を開いていけるなら、相対的に自我は薄まるだろう。
人はほんの束の間その真似事をするに過ぎないが、誰に倣うでもなく我々は自分の中に開かれるべき扉があることを知っている。
それは受け継いだ身体に刻まれた記憶なのか、もっと大きな位相の共有意識に拠るものなのか。
安全な個であり続けたいという願いと、個を超えたところにある何かに触れたいという願い。
彼岸と此岸の間(あわい)。
意識はその間を満たす水のような何かだ。

いつか身体を脱いで大海の一滴に戻る時、自分は後悔するだろうか。
海である時に比べたら、一滴でいられる時間はほんの僅かだろう。
同じ時も同じ体験も二度とない。
本当にその意味を理解して生きているだろうか。

またやり直せるゲームのように、どこかリアリティなく過ごしている気がする。
やり直せたとしても、それはきっと同じ私ではない。

今が完璧でなくても、見落とさずにいたい。
望んだものがまだ叶わないという、それこそがギフトだったと覚えていよう。
それを辿る道がまだ残されているということを。
一歩一歩、一つ一つなのだ。
毎日を丁寧に心から触れる。

結論は同じでいい。
それでも日々は違う。
そうやって生まれたものは、また別の道を作るだろう。

一つ一つを最も深い深度で味わうなら、炎の向こう側へ渡り、宇宙の水底に触れられるだろうか。

ここにいたまま、向かう側に行きたい。
ひどい矛盾だ。
酷くて、叶わない願いの間を振り子のように行き来する、その振幅の全てが生の意味だとしたら。

僕らが映画を鑑賞するように、遠くから観ている視点があるような気がしてくる。
僕らもきっと鑑賞者だった。
それで堪らなくやってみたくなった。
いざ飛び込んでみたら、それを忘れてしまった。
だから前半はそれを思い出すための時間。

では後半は?
誰も知らない、正解もない。
ただ自分の真実を生きる時間。


まずは火を焚き、舟を漕ぎだそう。







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