リアリティの深度


リアリティには深度や奥行きがある。

水面に出ているものだけを現実だと思っていれば、現実は一つでそれを全ての人が平面的に共有しているという前提になる。
水中に潜って生きるような奥行きある立体的な認識の仕方だと、現実はある密度での断面に過ぎないから、共有出来るものの方が少ない。

言語化出来るかどうかという違いはあれど、実際には私達はクジラのように、深度ある自分だけの水中リアリティと、共有された平面的リアリティを同時に生き、水面に顔を出しているときだけ他者に合わせて演じている。
これを自分の物語を生きているとも言い換え可能だが、水中に潜り過ぎると水面と水中の境界は段々と曖昧になっていく。
もしくは水面から離れて戻り難くなる。
何を共有していて何を共有していないのか、他者と自我の境目も通常信じられているほどには確かなものではない。
ともするとそれは容易に飛び越えてしまうことがある。

日常を維持出来なくなれば、病気やイレギュラーという扱われ方になる。
共有すべきものを共有出来ないと、浮き零れて現実に着地し辛いことになる。
実際には人間の認識など非常に曖昧なものなので、思考によって生成された便宜上の分離を前提とした社会は、拠り所とするには不確かなものだ。
故に私達の日常はバランスによって成り立っている。

深度や振動数の違うリアリティは共有出来ない。
体験的に理解可能なのは精々隣り合う層までだ。
位相が二層違うと、もう理解するのは難しい。
リアリティというのは非常に狭い世界での共通語に過ぎない。

リアリティを現実と訳すなら、現実は事実に対する認識の仕方だ。
それには無数の位相があり、私達はそうと氣が付ければ常に複数のリアリティを選び得る場所にいる。

まるで空の色のようだ。
空の色は決して単色ではない。
虹の色彩が無限の色を孕むように、空のグラデーションはどの瞬間も同じではない。
繰り返されることの決してない色彩を目にしているはずなのに、それに氣が付くことは稀なことだ。
この一瞬を切り取ることさえ、実際には出来ない。

一方で最高の空の色を知っている者だけが、その体験を認識出来る。
たとえ誰かの体験の不完全なコピーであったとしても、想像力はそれを補完する。

だから私達の体験のすべては誰かのギフトになり得る。
不完全なまま残そう。
誰かに求められる真球になろうと、削られた欠片の価値を切り捨ててはいけない。
人生を彩り、その道を舗装するものはいつもその欠片の方なのだから。

変わり行くすべての瞬間の、すべての色彩が完全の一部であるとただ認めよう。
私達の潜る海は広大で、この空の深度を私達は未だ知らない。







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