目で触れる


「久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」(紀友則)という歌がある。
穏やかな日の中で過ぎていってしまう日々の美しさは留めることができないというような歌だ。
朝の窓から見えている月桃の葉や花々、目に入ってくる命の一つ一つが皆生きている。
それは当たり前だけど当たり前でないこと。

愛でる、目で触れる。
視線には命に触れる力がある。
手で触れるように目線を滑らせ、命のエネルギーに触れる。

大きな命の境界の輪の中に飛び込むと、境界線は触れ合い交わり、やがてつながってしまう部分が出てくる。
命の交わり、生体のエネルギー、スピリットというものがあるとしたら、多分その幅を決めているのは、ひょっとすると視線なのかもしれない。

視線を伸ばして人や生き物や植物の命に触れるとき、どこまでが自分なのか境界がわからなくなる時がある。
ごく自然に一つのものとして認識されていくような、点描画で描いたような生命場の世界。
自分の境界を拡大し、他の命に向ける愛情や想いでつながっていくときに、二つの輪が混じり合っている部分。
ヴェシカパイシスの混じり合う面積は限りなく大きくなっていく。
それぞれの波紋がそれぞれのお互いをカバーし合って、混じり合い、ほぼ一つにつながる時、その波紋の幅にすべての命が混じり合った時、私達は次の世界に至るのだろうか。

庭の植物を目で触れることから始まるような、それはとても小さなこと。
一人分の幸せで足りていた境界線を、もし意識的な眼差しで拡げることができるとしたら。
視線の愛を向ける先が大きくなるにつれて、自分というものの枠は、もっと大きな場所で、大きな波紋の中で混じり合う。
無限に大きくなっていく共鳴の中で、私達は宇宙のオーケストラの一部になる。

互いの音が聞こえ合い、それを生かし合うハーモニーが生まれる。
宇宙はその波紋の共鳴でできている。
水に雨粒が落ちるような、小さな波紋の連なり。
それらを含む大きな波紋は、たくさんの命に触れたいと願う心。
大きな波紋と小さい波紋が隣り合い、重なり合うハーモニクスと共鳴が宇宙の本質だ。

隣り合う命たちの目に見えない境界を意識して触れる。
形あるものだけでなく、目と心で触れることのできる命の幅。
波紋のように重なる命に眼差しで触れる時、愛で触れる触れ方を意識して生まれてくるものは、私達の體(カラダ)の枠組みを超えたところに自分を立たせてくれる。

地上にあって着地して生きることの意味を受け取ろう。
それは螺旋の一つ上がった命の関わり方、共鳴に参加する意思。
命と命が触れて共鳴するときには、もっと大きな奇跡や調和が生まれている。
つながり合いの中で生まれるハーモニクスは、別な現実の創造へと繋がる。

祈りを持って、愛を持って、願いを持って、触れていく。

目で触れる、愛でる。
細やかな世界に触れる。






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