物語のある歌を聴くように、自分自身の再構築が進んでいる。
取りこぼしてしまった自分や、置いてきてしまった自分はどう取り戻せばいい。
変わり続けていくと、中心にあったものが分からなくなることがある。
人間の体は七年ぐらいで全細胞が入れ替わるらしい。
全く別人になっているはずの私たちの中には、変わらずある自分がいる。
連続している何かを再構築し続け、過去と未来と時間と空間の間で、人は移り変わり続けている。
その本質的な主体を何と呼ぶのか。
魂、エゴ、変わり続けていくものの中心。
それでも変わり続ける中に保たれているもの。
移り変わりの中で体験できる器の幅がある。
バケツの中の水のように、自分が今この瞬間の中で経験できるものは限られている。
今この瞬間を、器に抱えられる範囲のものを入れ替えながら生きている。
過去の私と全く別なものに入れ替わっていたとしても、僕らはそれを変わらず自分だと信じている。
自分自身に執着や強い愛着があると、自分の入れ替わりがうまくできなくなる。
手放していくものが惜しくなる。
手の中をすり抜けていって、どこまで行っても決して満たされることがないような思いを追いかけ続けて、僕らは穴を埋めようと必死にもがいている。
でも僕らの本質は天につながる穴だから、穴を埋めれば埋めるほど自分から遠ざかっていく。
追いかけていくものを愛を持って手放すことができたら、それは自分を受容することになるのだろう。
手放すこと。真に手放すこと。
心からの愛を感謝と共に送り出すことができた時、それらは真に自身のものになる。
送り出し、手放す時に返るものこそ真に残るものだから。
寂しくて追いかけて未熟で未完成な私をなんとか埋めようと、もがいてしまうのだけど。
追いかければ追いかけるほど遠くなっていくそれらの朧な形。
心から自己受容を受け入れるには、抱え込んでいたものをどれだけ手放せるのか、愛せるのか、送り出せるのかによるのだろう。
それは大切な誰かであったり、自分の一部である何かであったり。
そういうものをどれだけ心を込めて愛し送り出せるのか、自由にしてあげられるのか。
その量が大きければ大きいほど、きっと人は天につながれる。
穴である私、空である私を許せるようになるから。
自分の中の空を許すというのは、どれだけ自分がそこにスペースを作れるのか、送り出すことができる愛を持てるのかだ。
だから空と愛は同じものだ。
宇宙はそもそも空であり、私もまた空だ。
空そのもの、宇宙そのもの、愛そのものが、一でありすべてだ。
自分の空間が広がれば広がるほど、ハートの内なるスペースが広がれば広がるほど、世界を取り込むだけの、許容できるだけの自分が生まれていく。
そうやって自分と宇宙が一致していくことが、実は意識の気づきと成長だ。
それらのすべてが、この小さな器の中身を入れ替えていく。
愛したものを深く愛したまま手放して、愛であり続けること。
きっとこれは見つけるための物語ではなく、手放して自由にしてあげる物語。
それらが源に帰れるように、自身も羽ばたいていけるように。
魂の進化は、自分の空をどれぐらい広げられるのかという試みではないかと思う。
行っておいでって言ってあげられるといい。
そうするともっと大きなものが、もっと大きな循環の中で、自分の中に必ず戻ってくるようになるから。
それを信頼して送り出せるような、そんなギフトであればいい。
誰かのギフトになることができたものは、それ以上の価値を持つ。
僕らが今ここに歩いてきた道のりに、なんらかの確かさを与えられる。
二つ以上の視点が交わった時、そこに確かさが生まれるのだ。
仮に自分が死んでしまった後にも、互いに見た同じものは残されていく。
ギフトは自分の中に留めておいてはいけない。
手渡していくことが誰かの中に残るものを作る。
それは宇宙の波に受け継がれ残る波紋。
命の生きた意味になるのかもしれない。
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