秋霖



降り続く細かい雨。

お花の日。
一人分多く余ったので、それで花を組み、知り合いの雑貨屋に置いて帰る。

水晶ランプの光が暖かくて、 雨が気配を洗い流していく世界の中に、少しだけ守られた場所。
燈された灯りの数だけ人の営みがある。


愁いは秋の心と書くと気づいた。

優しさと淋しさはよく似ている。
誰かを愛したいと希うときの、存在の遠心性と求心性なのかも知れない。


互いに引き合いながら、その存在が保たれている。
お互いの間を廻り続ける、二つの連星の様に。
きっとどちらか片方がなければ、それは動くことのできない永遠の孤独なのだ。

それは死と同じことかもしれない。
だから、寂しさや悲しみ、誰かを慈しむ心や、優しさや、愛しさや希い、そういうものが、人の生に意味を与える。


ただそこにある人の営みが、誰かを温め得る不思議。
一人でいるときですら、私たちは何かとつながっている。

万有引力のように、見えない力で結び付けられている。
離れても離れても、決して途切れない糸のように。

その力を、人はいろいろな名で呼んできたのだ。
ただそれが、人がこの世界に生まれ、全ての生命が生命として、在ることを許し許されてきた理由のようにも思える。


ずっとそこにあって、あまりにも近くにあって、気づきにくいこと。
きっと己の内と外に、心開かれていないと感じ取れないこと。

懐胎された胎児が、恵み満ちた豊かな羊水の存在を知らぬように。
最初の息を与えた風が、母と子を呼吸を通してつなぐように。

存在の本質として、私たちに組み込まれている根源的なつながり。



夕闇と雨が穏やかに、世界を包み溶かしていく。
そっと置いてあった贈り物のように、今年最初の金木犀が香っていた。









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