蛍光灯の光が気になるので、薄い素材の電気カバーをかけてみた。
シナマイロールというらしい。
天然麻(多分)の繊維を編んだ資材で、軽くて透け感があってちょうどよかった。
大麻の薄手の布地があればベストだったんだけど、これはこれでいい感じ。
なんかいろいろ書くことはあったんだけど、日が経つにすれすっかり記憶とか感情が薄れていってしまう。
そのとき感じたときに、せめて心象メモみたいなのだけでも残しとかんとだめだなぁと思った。
例えば先日どうしようもない気分のときに見上げたら、すごく大輪の見事な二重の虹が空に架かってて、それまでの気分が吹き飛んで、一気に上機嫌になってしまったこととか。(7/19)
虹は無条件に偉大だ。虹を探す人に理由を問う人がいたとして、でもそんな人さえきっと、虹を見つけたときには、人は理由なく与えられることがあるのだということを悟るのだろう。
そんな天の計らいとギフトが世界には満ちていて、やはりそんなときに生きることの意味とかを、言葉ではなく理解したりすることがある。
なんかそれでいいじゃないか、小さいことだと思えるのだ。
雨が上がれば虹が架かることがあるように、きっと全て大きすぎて見えない、とても美しい理の一部なのだ。
それを忘れてしまいそうなとき、何か偉大なものが、そっと垣間見せてくれる美しい宇宙の欠片に、人が受け取る幸福をギフトと呼ぶのだろう。
それは例えば南アラスカの先住民のクリンギット族が、「ハッシャゲニア (永遠なるものの贈り物)」と呼ぶ、宇宙の創造主の一部を垣間見るようなことなのかもしれない。
そういうものに触れると、人の持つ、小さな感情など、それほど大きな問題ではないのだと素直に受け入れられる。
自分は自分の思うより、大きな枠組みの中で生かされていて、自分の小さな箱の中に囚われている必要など、始めからなかったのだと気がつく。
自分が何者であるか、ほんの少し思い出させること。きっとそれこそが天の与えてくれたギフトだ。
そんな思いや気付きなどとは無関係に、虹は美しくて、ほんの少し輝いて、夕闇に溶けていってしまう。
きっと何か大きくて偉大なものが、ほんの少し地上を覗き見たときに、目が合ってしまったようなことなのかもしれない。
地上にも美しいものがたくさんある。だからまだここでがんばれるし、愛していられる。
必要なタイミングで与えられるそんなギフトに、深く感謝して信頼を思い出した日だった。
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