観想(テオリア)8
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よく晴れた梅雨の晴れ間の日。今日はオフ。
行きたい時に海を見に行ける仕事。ビバ自営!!
昔、通勤の駅のホームで、このまま下りに乗って海にでも行っちゃおうかなとか何度も思った。
自分以外のものに自分を縛らせるのが嫌で、自営を志したんだけど、自分のリズムで生きていけるって、とても幸せなことだなぁと実感します。
あらゆるリスクを引き受けても、自分自身の人生のクリエーター(創造者)であるべきだというのが僕のポリシー。
日が伸びて、本当に夏至直前です。
お日様の光自体は、なんか今日は柔らかくてよかったんだけど、日照量とか気温とかは、もう夏ですな。
夏至直前はいろいろな調整が起こります。
眠くなったり、体調崩したり、人間関係とか仕事とかに、普段表に現れないようなことが起きたり、転機が来たり。
今年の夏至は特に、夏以降のかなり大きな惑星レベルの変容に備える意味合いもあるらしいので、個々人のレベルでもいろんな調整がかかることが予想されます。
陰陽でいうところの陽の極みの日だから、当然といえば当然なのだけど。
そんなわけで、今週末はちょっと滝行に行って禊ぎとお清めしてきます。
21日夏至夜は恒例キャンドルナイトとお祈りやります。よろしく~。
ここ数日思ったのは、自分は自分以外のものではあり得ないってこと。
その上で、常に自分を乗り越えて進むしかないのだろうけど。
友人のスピリチュアルお茶会というのに参加して、いろんな人が、それぞれの場所、それぞれの在り方で現実を受け取っているんだなぁというのを、改めて実感し、じゃぁ自分は何をしているんだろうって振り返って、実は大して進んでいないんじゃないのとか思って愕然としたり。
螺旋を上から眺めるように、同じように見えても、少しずつ今あるべき場所は変わってきたのだと、信じたいところですが。
やれやれですねぇ。動いていないんだというのを客観的に拾えるくらいの視野の広がりは得たということか。もっと早く進みたいものですが。
どうにも人に指図されるのが嫌いなわがままな性質で、困ります。
自分の周りに壁を築いて、それを超えてくるものを許さないというのを未だにしているのかなと思って、ちょっとがっかり。
結局、自分を掘り下げていって、開いていくしかないんだろうけど。
努力しているつもりでも、なかなか自分の変容は、本で読んで出来るつもりになっているくらいじゃ変わりません。
ブレーキを踏みながら走っていると無理が生まれて大変よ、なんて人には言えますがね。
結局、自分可愛さに、ごまかしと逃げ道を作っておきたいのでしょうか。
どうしたらいいんでしょうかね、これ?
”どうしたらいいと思う?”
必ず自分で考えさせようとしますよね。教えて欲しいときもあると思うのですが。
”人に聞いたとしても、本当には自分で理解できたつもりにしかならない。
理解は内側からやってくる体験を通してしか、あなた自身の中に生まれない。
分からないわけはないだろう。
弱音で自分を慰めて、進まない理由を探すのは、進むのに疲れたということかな?”
ときどき、このままでいいんじゃないかと思いますよ。
だめなんですかね。適当に生きても、きっと楽しく生きていけますよ?
”本心とは思えないが(笑)
誰にどんな許しを得られたら、満足なのかな。
あなたがあなたの生きる意味を決めたのだよ。
あなたがそれでいいといえば、それがあなたの人生の質を決めるのだ。
自分を甘やかしたい気持ちは分からないでもないが、それで得られる満足はあなたの真の渇きを満たすことはないだろうね。
求めるものが険しかったからこそ、あなたはそこに輝きをみたはずだ。
余分なものを削ぎ落として、何も偽ることのない自分になりたいと望んだのだろう?
荷物を持ったまま進んでいく方が、よほど大変なのは分かっているはずなのに、何を守ろうとしている。
よく見てごらん、そこにあるものを。
自分と、自分が必死に守ろうとしているものが何なのかを。
あなたが今、必死に守ろうとしているものは、自分の本質ではないのだよ。
それはあなたの上澄みを覆っている、エゴの膜だ。
あなたは覆われた姿を、自分だと勘違いしている。
あなたを覆い尽くして、あなたの精神をコントロールしようとしているのは、あなたのある段階における一つの精神の働き、存在の層(レイヤー)の一部に過ぎない。
ある人にとっては、それは完全な現実だが、一度それを外から認識することができれば、人は目醒める。
そして夢が現実で、現実が夢だったのだと気がつくだろう。
どちらも、存在のどの側面を体験するのかという、試みに過ぎない。
気が付いていようとすることを、諦めないことだ。
人は必ず進歩する。それを知っていることがそれぞれをを導いていく。
いやならば休むといい。留まってはいけないなどと、誰も言いはしない。
それに満足しなかったから、自分で決めて歩き出したのではなかったかな。
あなたのしていることで、誰かを幸せにできたなら、あなたは自分を誇ることができるようになるだろう。
自分で自分に許しを与えることができるようになるだろう。
それこそが、真の自由、真の解放なのだと、あなたは思い出すだろう。
自分を大切にするのと、自分を甘やかすことは違う。
自分を大切にする者が、他者を蔑ろにすることはない。
他者もまた、自分と同じような、偉大な神性の一部であると、本能的に理解するからだ。
自分を甘やかした結果が、誰かを傷つけるのであれば、それはあなたが自分自身を傷つけているからだ。
あなたの守ろうとしていたものが、あなた自身ではなく、ただ単にあなたの精神を覆っていた膜に過ぎなかったからだ。
それ故、自分の存在の中心に、意図とエネルギーを向け続けることができなかったのだ。
あなたが自分をごまかすたびに、あなたは自身の神性を傷つけている。
エゴでない自分として生きることが、恐れを伴なうのは、エゴが心身の個体を形成する殻の役割をしているからだ。
エゴの殻に包まれて生きるうちは、卵から孵らずに、幻想を生きているのと同じことだ。
殻の中で見る夢は、幸福のものばかりとは限らない。
真のリアリティーを感じて生きるには、殻を内から破って、もう殻を必要としないで生きることを選ぶことだ。
そのとき、真の意味で生まれることができる。
生の本当の意味を味わうことができるようになる。
どんなときも、愛を持って見なさい。
ありがとう。
愛しているよ”
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