蓮と空気清浄機と私





 

七夕の朝は4時にピックアップしてもらって、古代蓮の里に蓮の開花を観に行ってきた。






蓮の葉には朝露がたまって、玉になってた。

あのつるつるとした水の玉には、なんだかとても惹かれる。

すくって飲んでみたらほんのり甘くて、とてもやわらかな波動だった。



蓮は一億六千万年以上前から存在する最も古い花の一つ。

そして最も霊格の高い植物の一つといわれている。




蓮の葉にたまった朝露はとても波動が高いので、その甘露水と花のバイブレーションの力を借りて、スペシャルフラワーエッセンスを作成してみた。

飲んでみると深い調和と拡がりに満たされて、呼吸が深くなって、ハートが温かくなる。

天と地がしっかりつながって、自分の中に光の柱が立った感じ。

心も体もとても穏やかな美しさを感じた。



その後、画家の加藤先生が蓮池のとなりでインスピレーションを受けながら、素晴らしい観音様をライブペインティングしたり、塔に上って皆で地上絵を眺めたり。

うどんを食べたり、露店に出ていた楽器屋さんと仲良くなって、サンスラというとても美しい音色を出す、楽器を注文したり。

一緒に行った他の方達は、その後ばらばらに帰り、そのまま温泉に行ったりした人もいた。





私はそのまま埼玉県の新井宿まで移動し、先日自作してみた空気清浄器(写真→)を、構造アイデア元のテネモス国際環境研究所で見てもらう。

実用に耐えるかどうかを判断してもらおうと思い、可能ならそれを作るワークショップの許可を得たいと思ったのだ。



テネモス代表の飯島先生は、欲のない変わった研究者で、放射能まで無害化してしまうような装置を、オープンソースで公開している。





それを元に、同じ材料で空気清浄機を作る外部ワークショップに先月参加し、これがなかなかよかったので、余った材料とホームセンターで見つけたいくつかのもので、先日自分でも自作してみた。

この試作機が役に立つようなら、作りたい希望とオファーが多かったので、うちでもやってみようかと思ったのだ。



しかし所長の簡潔なその返事は、簡潔すぎて要領を得ずに、むしろ困ってしまった。

「まぁなんでもやってみることだね。

 自分でやってみて、良いも悪いも自分で判断して、試行錯誤していくことだ」



独立独歩でやってきた科学者らしい言葉。

何も教えず、教えられない。

教わろうとしても本当のことは自分の体で理解するしかない。



まぁそうだろう。無理もない。私が彼でもきっとそう言う。

安易に保証とバックアップを求め、相手の好意を頼ろうとした私のショートカットを彼は見破ったのだ。



仕方ないので、先日ワークショップを主宰したふみみんさんのところに電話して相談してみた。

ふみみんさん達は工房で材料と作り方を習い、ほぼ同じ規格で作成したとのこと。

参加費の内訳は材料費とお茶代くらい。

でもこればっかりやってるわけにもいかないので、次回でやめるそうだ。



ふーむ、利益を目的としなければ、自分でやってもいいのか。

しかし先日自分で作った自作機は、材料と規格がわりと違う。

なので同じ効果が出るか研究所で見てもらおうかと思ったのだが、所長はそれも自分で判断するしかないという。

それを証明するには莫大な請求書がくるよとおどかされた。

つまりお墨付きはしてやれないということだ。

(一応、機能してるし良いんじゃないのとは言ってもらえたが)



自分の頭で考え、自分の責任で行動する。

その通りだ。正しい。



しかしこれに関しては、正直どうしても普及しなければならないという使命感が私にあるわけではない。

よいものだと私が感じるから、それを欲しいという人にもどうせなら教えてあげたいというくらいのものだ。



そんなわけで、私が作ったものと同じ材料と規格でよければやってみることにした。

とりあえず、まずは一回やってみて様子を見る感じ。



材料調達にある程度時間がかかるので、どのくらいの希望があるかをリサーチして、確実に予約があった分だけまずは材料を調達してくる。

これで利益が出ちゃうと問題があるかもしれないので、今回は本当にかかった経費とお茶代くらいしか乗せない。



しかしそれだと正直モチベーションが維持できないので、多分今回一回限りになるだろう。

あとはそれを伝えたい人達に、オリジナルの方の材料と規格を教えるので、自作するなり広めるなりしてもらおうと思う。





私が興味を惹かれたのは、なぜこれが機能するのかという宇宙哲理に則った理解の部分。

で、それを実際に形にして、あまつさえ結果を出して証明してしまったという行動と実績の部分。

なんにせよ、宇宙の深淵にある天の法則を理解した上で、人に伝えられる分かりやすく目に見える形と結果にしたのは、科学者としての本分を貫いていると思ったのでそれを支持したのだ。



本当のことというのは分かりやすいものだ。

それがあまりにもシンプルだから、この偽りと制限とコントロールで複雑に混乱させられた世界では、かえって受け入れられにくかったりもするというだけのこと。

大衆が本当のことに気付きにくくさせるように、常識や教育を操作されていたから仕方ないといえばそうなのだが。



私は以前に、ある宇宙人の科学者から宇宙哲理の話をみっちり聞く機会があったので、直感的にこの法則と機械は本物でよいものだということが腑に落ちた。

その話はまたながくなるので割愛するけど。



でもそろそろ、本当のものや、本当のことに人々が気付き始めてきている。

この311以来、人々の意識は大きな飛躍を始めたのだと思っている。

あれはある時代の節目と、意識の転換点だったのだろう。

それが本当に形になって、現実として顕れるのはまさにこれからだけど。



個人においても社会においても、意識が変容しつつある。

自分も目覚めたいし、社会もいい方向へ創り変えていきたいと思っている。

個人がエゴを越えて本当に目覚めるのは、少なくとも私にとってはとても大変な作業で、今出来ないと多分とても後悔することが分かっているから投げ出せないでいるのだ。



カリスマを持った誰かに導かれる時代は過ぎたのだと思う。

どんなに迷いがあっても、それぞれが自分の意思で立ち、自分で選び、自分の責任で歩を進めなければならない。



人はそれらを見分ける魂の目を、それぞれの中に必ず持っている。

個の魂は、宇宙の大樹に連なる木の葉なのだから、自身を掘り下げれば必ずその幹を知ることが出来る。

結局、その目が曇らぬよう磨き続けながら、地上でそれを実現するための情報や理解を自分の意思で模索していくしかない。



それでもいずれ前に進むしかないのだから、どちらにせよやるしかないのだ。

チャーリーブラウンならきっとこういうだろうか。 ”Good grief ! 〔ヤレヤレだ〕”





結局私がしたいこと、欲しいものは、本当のことだけなのだ。

だから宇宙の哲理を知る人の智慧には、古今東西を問わずとても惹かれるし、それらが応用された来るべき世界の在り方にワクワクする。



宇宙には、未だ人が読み解けぬだけで、無数の真実と智慧が満たされている。

植物や鉱物、自然の佇まいや、それら物云わぬ者達の語るバイブレーションやメッセージには、真実があるのだと今は本当に信じられる。

人にそれらを受け取り理解し翻訳できるだけの智慧や理解、ボキャブラリーが足りないだけで、水面を見てその海の深さが量れぬように、目に見えぬ世界の方が、現れている世界よりも遥かに大きく深い。



七夕の朝、蓮の花が私にくれたバイブレーションは、天と地をつなぎ、自分の体と内なる宇宙に、深い調和と安らぎをもたらすものだった。

音や香りを形容しきることができないように、本当のことを表現するには言葉では足りない。



だから人には想像力があり、創造力が与えられている。

それを表す方法が科学であり、芸術だ。

芸術と技術が同じ一つの言葉”Art”で表されているのは興味深い。



大地(Earth)と天(Heaven)の間にあって、人の為す営み(Art)を表現するための場所。

それが地球だとしたら、言葉はよく出来ている。 (E_art_H=EARTH)



法則とは自ずから然りとあるべきもの。つまり自然の中にある。

自然でないものを排除していけば、自ずと見えてくるもののこと。



自分の中の自然に還り、それらの連なり(社会)の中の不自然を正していけば、本当に心地良い場所が生まれるだろう。

そうしたら人にとって本当に必要なものだけが残る。

おそらくはそこに最後まで残ったものと、その営みのことを真にArtと呼ぶのだ。



私はそういう世界に住みたい。

だから自分の中の偽りのない声にしたがう。

それがどこから来るのかをきちんと見極めて選ぼうと思う。





長くなりました。

ありがとう。





 

 



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