丹田に意識を下ろして生きる





 

昨日はセルフメンテナンスデー。

友人のきーちゃんところでボディとエネルギーを整えてもらう。

やっぱりボディワークは自分でやるより、やってもらう方が気持ちいい。



ワークを受けながら、この人のやっていることはなんだろうって感じてみてたら、いまいちワーク(仕事)っていう言葉に違和感があった。

なんか自分の身体でも人の身体でも、そこで起きることを観察して楽しんで遊んでいるみたいに思えて、優れた音楽家が楽器を通して演奏しているような印象があった。



「君はワーカー(worker)っていうよりプレーヤー(player)だよね。探求して、遊んで、奏でて、調和を取ることを楽しんでいるよね。ボディプレーヤー(Body Player)って感じ」



そう言ったら、途端にキャッチコピーが降りてきた。



『あなたを奏でます あるべき和音へ』



なかなかいいじゃないか。名刺とかにもなりそうだ。

的を得ていて、きーちゃんの受けもよかったので、その人のキャッチコピーを考えるとか、コンサルティングメニューに加えられないかなとかちょっと真剣に考えてみた。

ご希望があればやるかもしれないので試してみたい方は打診してみてください。







さて、今回の気付きは「丹田に意識を下ろして生きる」ということ。



丹田に意識を降ろすなんて、飽きるほど言われてきたことなのに、ようやくその本当の意味を体感的に理解した。

これはすごいよ。変わる。別の人みたいって言われた。



体の真ん中(丹田)から、ヒトデみたいに手足をはやして、頭は飾り程度に意識して丹田を中心にして身体操作すると、人間の生命としての野生と直観が研ぎ澄まされる。

身体意識とかハイアーセルフとの接続とか、グラウンディングとか姿勢とか、圧倒的にクリアになる。

武道の達人とかの身体意識を理解できた。纏う空気まで変わった。



そしてこれは昔の武士とかの身体感覚だなと思った。

重心が降りて、生きるということのリアリティが増す。

日本人の死生観では、霊魂(生命の実体)は腹に宿るものだった。

だから自らの命を差し出すと言うときに腹を切る。(西洋では頭を撃ち抜く)



たとえば大昔のご先祖様である原生動物は、口と腸しかなかったわけで、要は腸が異物を認識して、身体(カラダ)に必要なものとそうでないものを見分けていた。

つまり腸が考えて、個体の生命維持の指揮をしていたということ。

今でも腸は、人間の身体の中で唯一、脳を経由せずに、反射で異物を拒絶することのできる臓器であり、事実、腸の神経細胞数は、脳のニューロンネットワークに匹敵する。



異物を認識するということは、自分とそうでないものを判断しているということ。

つまりどこからが自分で、どこからが他者なのかということを理解している。

個体存在としてのアイデンティティー、言い換えれば意識を持っているということだ。



ならばそこを主とした生命の在り方はありだ。

脳がサポートすれば、人の生き方として成り立つだろう。



マクロビとかでは、腸は第二の脳なんて云われ方をしているけど、実際は腸が第一の脳なのだ。

脳みそこそ、後付けの第二の脳であって、複雑化する情報処理に特化した臓器として、後日付け加えられたスペックなのだ。

したがって何が言いたいかというと、サバイバル、生命のリアリティ、実在感ということに関しては、圧倒的に腸のインテリジェンスが優位であるということ。



通常の脳みそ優位の意識を、腸(丹田)に降ろして生きるだけで、ものすごい開眼があった。

これは、生きているということの純粋な体験そのものだ。

最近一番コペルニクス的転換だった出来事。腸意識は超意識。



結局、身体(カラダ)を無視しては生きていけないのだ。

人間としてここに肉体を持って存在している以上、心だろうが、魂だろうが、高次の意識だろうが、この身体こそが、その存在を結実する座標なのだ。

ここがぶれていたら、生きていることのリアリティが希薄になるのは当然だ。



軽やかに、今ここだけを、一個の生命として生きることが出来たらなんて美しいのだろうと思う。

余分なことを考えず、あらゆる囚われから自由になって、生きているという体験そのものを味わえたら、それは天国を身体を持って生きているのと同じことだ。



人間の問題の大半は、囚われから生じているのだろうと思う。

囚われているのは意識であって、さらに言えば主には左脳的ロジックと感情の起伏に起因するものだ。

心配や不安は、過去の体験から来る反応パターンと、未来への憶測の中にしか存在しない。

つまり脳の作り出す幻影であって、実際に今ここにあるものではない。



ということは、囚われをなくせば問題はなくなる?

脳優位の意識が囚われを生んでいるのであれば、もう一つの脳に意識の中心を降ろせば囚われを手放せるのでは?

だって、腸意識は超意識だから、思考から自由だ。今ここという実在しか認識しない。



その上で必要に応じて脳で処理する必要のあることは処理し生活するとしても、意識と判断の中心を脳から丹田(腸)に移行したとして、問題があるだろうか。



待てよ、これって仏陀が言っていたことそのものだ。

囚われから自由になること、執着を手放すことが中道の真髄だったはず。

陰陽(原因と結果)に偏らず、今ここにありのままあること。

ありのままの全てを、ありのまま認識して体験することができれば、それは悟りであり、完全なプレゼンスを生きるということじゃないか。



腸すごい。



囚われという口(ハコ)から出すことで人になる。

じゃあ、むしろこれが生命として自然なあり方だ。



今年に入ってヤクルトとヨーグルトを多く摂るようにしたら、なんだか腸が活性して腸意識が目覚めてきた。

これからの時代をサバイバルしつつ、プレゼンスを保ったまま軽やかに生きていくためには、必要な身体意識かもしれない。



腹に居て、心で感じて方向を決め、頭で具体化する。

それがバランスの良い生き方の気がする。

今はそんな風に感じる。





ありがとう。









余談:

丹田に意識を降ろして生きるという身体意識にして、エネルギーワークを行ってみたら、かなり違う手ごたえと変化があってとても面白かった。

身体の中枢軸のどの層に意識の中心を置いてワークするかによっても、対応する質が変わるようだ。要研究。楽しみが増えた。



















 

2 件のコメント :

  1. 感動しました!
    頭でごちゃごちゃ起こってもないこと考えて、病気にになりましたが、これ読んで早速、丹田に意識を向けて、丹田が頭なんだとわかり、意識したら、すっごく楽になりました。

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  2. はじめまして。
    言ってることすべてドンピシャで共感です。びっくりしました。
    ありがとうございました。

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