自分で考えるということ







120206 自分で考えるということ





昨晩散歩に出たときに、ふと有機バナナを買ってみた。

今朝それを食べながらぼんやり考えていたことがある。



なんで有機の方が安全でおいしいのに、値段が高いのだろう。

みんなこっちの方がいいと思わないのかな。

みんなが選べば流通量が多くなるんだから安くなるはずだよね。

有機、オーガニックなものの市場は、まだスケールメリット(たくさん買えば安くなる)を使えるほど成熟していないっていうことか。



あーそうか、ちゃんと選んでないんだ。反射で買っているとか。

あるいは安いという理由が、他の価値よりも優先されているのか。

でもそれって極論、生命よりお金の方が大切っていう価値観だよね。

え、本当にみんなそう思ってるの…?

人と話す実際の実感としてはそうも思えないけど。

でも表現される行動は、その価値観が前提に見える。んー。



でも二つ並んでいると、つい安い方を選んじゃうのはなんでかな。

お金は有限で、自分の扱える量が決まっていて、足らなくなると生活できなくなって、生きることが出来なくなるっていう不安があるっていうこと?

不安と不足を前提にした選択だから、安い方がいい。ふむ。



でも不安を前提にしているっていうことは、自分の生命を守りたいっていうことだよね。

それなのに、心身によくない毒物、添加物、ケミカル、放射性物質を、安いという理由で選択して身体に蓄積していく。なんでだ?

ゆっくり死ぬなら怖くない?みんなもやっているから大丈夫?

あー、そうか。不安を自分で考えて感じとることを放棄しているんだ。



毎日、考えなくても目の前にやってくる提供されるものを、そのままさほど判断もせず受け取っているのか。

それって国やシステムに対するすごい信頼だな。

でもすごい不自然。なんだろうこの違和感。



なんというか、生き物として正しくない気がする。

身体で感じたら拒否できるはずのものを、頭が優位になってぼんやりしていることで素通りさせている、なにかとてつもない見落とし感。

それで当面の安定は得られるとしても、果たしてそれは幸福なのか?



あー、でも、そういう幸福も確かにあるか。

物質的充足=幸福の定義なら、そのインフラは機能している。

そのプロセスは抜けて、精神、スピリットの充足とは何かを問えるようになったってことか。

実際そのインフラを造るために尽力した先人達のおかげで、平和で安全に見える世の中を生きることができる。



でも、とてもぼんやりした幸福に似たものを与えられて麻痺させられているような、そういう何か気持ち悪い感じは拭えない。

麻痺させられている?あれ、与えられることが前提なのっておかしくないか?

あー、だからだ。この違和感。



与えられて当然っていう、その在り方がすでに自然じゃないんだ。

潔くも美しくもない。自分の人生と生命なのに、自分で生きている感じがしない。

謙虚に、天と大地に生かされていますっていうのとは違う、何かに依存して、生命として自立していない、その感じが気持ち悪いんだ。



うわー、いやなもの想像しちゃった。

後ろの扉は開いているんだけど、毎日餌が流れてくるから、その厩舎から出られないブロイラーとか豚みたいだ。

たしかにいきなり野生じゃ生きられないけど、それはすでに生きる意味を消失している。



自分で感じて、自分で選んで生きるってどういうことだろう?



「頭とハートと身体とスピリットが一致して、感じることに素直にありのままあること」



え、ここであなた(ハイアーセルフ)が口を挟んじゃうのって、ルール違反じゃありませんか?いい流れだったんですけど。



「そろそろまとめに入った方がいいかと思ってね」



おいしいところを持っていきますね。ずるい。



「わたしが話したところで、君の話すのとたいして変わらないだろう」



自分で立てそうなところを、最後持ち上げられちゃって、達成感を奪われた子どもみたいな気持ちなんですよ。



「それは失礼した、すまない。

では問おう。具体的には自分で選んで生きるとはどういうことかな?」



おっと、意外な返し。

そうですね。多分一つ一つの行動の結果をイメージして、それに責任を持つということですか?

たとえば、有機オーガニックなものとか、地産池消の野菜とかを選んで買えば、それに賛成しているっていう意思表示になって、その積み重ねの結果それが次の世界の在り方として根付いていくというか。



「確かに想像力は大切だ。世界は想像の結果、創造される。他には?」



んー、自分が何を好きで、何を愛するのかを知っているっていうこと?

そうでなければ、何に賛成したいのか感じられないから選べない。



「君が愛するものを知っているということ。それをどのように感じたらいい?」



味わうこと?居心地のよさとか手触りとか味とか、そのものを心から触れて受け止めて交流してみるとか。



「いいね。それは愛だね。味わったらそれでどうしたらいい?」



愛すること?あー、そうか、愛することなんだ。

結局自分が大切にしたいものを愛すれば、それが自分で生きたい生命のあり方を選ぶっていうことなんだ。なるほど。



「その通り。ほら、自分で辿り着いた。私が話すよりもスムーズだったよ」



インスピレーションの導きがあったからですよ。それは天からもたらされたものでしょう?



「では、天と自分の違いは何かな?自分とは何かな?」



自分とは?





「あなたが受け取るということは、あなたもまた天の一部なのだよ。私があなたの一部であり、あなたが私の一部であるように。

あなたが自分だと思っているものは、実は自分を越えた枠組みの中に組み込まれている、一時的な存在のあり方、座標、表現の表れに過ぎない。



人は時空を越えたつながりの中の一時的な表れとして、一時的な時間、空間、肉体、関係性、の中に自らを表現する。それが今のあなたの人生だ。

しかしあなたの存在は、永遠性と普遍性の中にその本質を有しているから、決して損なわれることはない。

従って、世界が不足と不安を前提にして成り立っているという、あなた方の信念は幻想だ。

あなたがどんなにそこにリアリティーを持っていたとしても、実際にはあなた方は損なわれることはない存在だ。



話を戻そうか。

人が不安と不足を人生の前提にして選択するから、長期的な未来への展望ではなく、より安いもの(一時的な安定)を選ぶのだとあなたは考えた。

その恐れが、世界をよい方向へ進むのを、押し留めている原因であるとも。



あなた方が損なわれることのない、普遍的で無限の存在の顕れだとするならば、その前提は覆る。

問題はどのようにして、人々がそれを新たな信念として自覚するかだ。



有限な自分自身という自己イメージを、より本質的普遍的な自己に連続するものと捉え直し、不安と不足の怖れに左右されない生き方をどのように実現するか。

それが真に自分で感じ、自分で選んで生きるということの目的だ。



実際のところ、あなたが不足を前提としない在り方を選ぶなら、あなたに不足はなくなる。

あなたの問題は足りないという事実ではなく、足らないという思いだからだ。

自身の本質に添って、自分とそれに連なる大いなるものを信頼して生きれば、現実的な豊かさももたらされるだろう。



あなた方が真に、自己が誰であるかを知ることが、この世界の進化には必要だ。

それがこの時代において、霊性の自覚が必要とされていることの意味だ。



あなたが誰であるのかを知り、それを表現しなさい。

あなたの大切にしたいものを愛し、自分のありたい生命のあり方を選び、あなたの真の喜びを地上に表現しなさい。

自分のスピリットに、常にベストを尽くして生きなさい。

歓びを燃やし、生命を燃やし、できるだけ生命と魂に純粋でありなさい。

もう言い訳も妥協も先送りも出来ない世界になるのだと自覚しなさい。

あなたが選んだ自分があなたになる。それが宇宙の仕組みだ。



それを見て、他の誰かも、自分自身が誰なのかに気付いていくだろう。

変化は内側から、きっかけは他者からもたらされる。

あなた方の背中と表現によって、世界に変化を促しなさい。



あなたが描きたいヴィジョンは何か?

あなたはどのような存在として生きたいのか?

あなたの人生が世界に残したいものは何か?

選びなさい。



あなたが書きたいのなら、怖れずに書きなさい。

歌いたいのなら歌いなさい。誰かの人生に残しなさい。

表現しなさい。伝えなさい。与えなさい。余さずに。

あなたの本質は無限であっても、あなたに今与えられた時間は有限だ。

それを無駄なく使い切りなさい。決して悔いのないように。



あなたは孤独ではない。

インスピレーションは天からもたらされる。

天はあなたの一部であり、あなたは天の一部だ。



自分自身の本質に従えば、そこにより大きな意図が見えるだろう。

そのときあなたは天を自らの内に持って生きる。

あなたが誰であるのかを見失わなければ、人は不安になることはない。

宇宙と生命の本質に不足はないからだ。

そしてそれがあなたの本質だからだ。



いつもあなたの望むとき、宇宙はあなたと一つだ。

私達が一体であるとき、あなたは”孤独”ではなく”一つ”となる。





愛しているよ」



















 

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