首相の敵は誰か





 

世界中で日本政府の大飯再稼働に向けて抗議行動が始まりました。

世界各地の日本大使館と領事館前にて、野田総理の再稼働の決断に対する抗議行動が行われ、抗議文と署名が届けられました。

以下[詳細]



この国の中にいると情報統制で、すでに茹で蛙になっていることに気付かずに致命的な状況を容認しがちです。

意識を開いて客観的に状況を見ていきましょう。



この国はよくも悪くも外圧に弱い。内側からだけでは難しいなら、国際世論を味方につけて外圧をかける方法も探しましょう。

明らかに、今この国は異常な方向へ向かっていることを自覚しなければならない時期です。





先日、野田首相の大飯原発再稼働について国民に理解を求める声明が発表されました。

これについてとてもよい解説があったので、転載します。



これはさすがに野田さんはやりすぎた。

本当にこの人に任せていたら、この国のみならず、惑星規模の危険が生まれるかもしれない。



なんというか、とても悲しかった。

こういうのが、政治だとか社会だとか自分の属している世界の出来事だなんて信じたくないけど、ちゃんと見なければ本当には変わらない。だから受け止めます。





「彼は正直に苦境を語るという方法をとらずに、詭弁を弄して国民を欺こうとした。

政治家が不実な人間であることを悲しむほど私はもうナイーブではない。

だが、総理大臣が自国民を「詭弁を以て欺く」べき相手、つまり潜在的な「敵」とみなしたことには心が痛むのである。」







内田樹の研究所

・~・~・~・~・~



「国民生活」という語の意味について



野田首相の大飯原発再稼働について国民に理解を求める声明が発表され、それについての評価を東京新聞から求められた。

声明の全文を読まないとわからないので、全文のpdfファイルを送って貰って読んだ。

驚嘆すべき文章であった。

このようなものを一国の国論を二分しているマターについて、首相が国民を「説得」するために語った言葉として公開してよいのか。

私は野田さんという人に個人的には特に好悪の感情を抱いていなかったが、この声明を読んで「誠実さを欠いた人だ」という印象を持ってしまった。

その所以について述べたい。

そのためには、首相の所信表明演説の全文を読んでもらう必要がある。



【野田総理冒頭発言】

本日は大飯発電所3,4号機の再起動の問題につきまして、国民の皆様に私自身の考えを直接お話をさせていただきたいと思います。

4月から私を含む4大臣で議論を続け、関係自治体のご理解を得るべく取り組んでまいりました。夏場の電力需要のピークが近づき、結論を出さなければならない時期が迫りつつあります。国民生活を守る。それがこの国論を二分している問題に対して、私がよって立つ、唯一絶対の判断の基軸であります。それは国として果たさなければならない最大の責務であると信じています。

その具体的に意味するところは二つあります。国民生活を守ることの第一の意味は、次代を担う子どもたちのためにも、福島のような事故は決して起こさないということであります。福島を襲ったような地震・津波が起こっても事故を防止できる対策と体制は整っています。これまでに得られた知見を最大限に生かし、もし万が一すべての電源が失われるような事態においても、炉心損傷に至らないことが確認されています。

これまで一年以上の時間をかけ、IAEAや原子力安全委員会を含め、専門家による40回以上にわたる公開の議論を通じて得られた知見を慎重には慎重を重ねて積み上げ、安全性を確認した結果であります。もちろん、安全基準にこれで絶対というものはございません。最新の知見に照らして、常に見直していかなければならないというのが東京電力福島原発事故の大きな教訓の一つでございました。そのため、最新の知見に基づく、30項目の対策を新たな規制機関の下で法制化を先取りして、期限を区切って実施するよう、電力会社に求めています。

その上で、原子力安全への国民の信頼回復のためには、新たな体制を一刻も早く発足させ、規制を刷新しなければなりません。速やかに関連法案の成案を得て、実施に移せるよう、国会での議論が進展することを強く期待をしています。

こうした意味では実質的に安全は確保されているものの、政府の安全判断の基準は暫定的なものであり、新たな体制が発足した時点で、安全規制を見直していくこととなります。その間、専門職員を擁する福井県にもご協力を仰ぎ、国の一元的な責任の下で、特別な監視体制を構築いたします。これにより、さきの事故で問題となった指揮命令系統を明確化し、万が一の際にも私自身の指揮の下、政府と関西電力双方が現場で的確な判断ができる責任者を配置致します。

なお、大飯発電所3,4号機以外の再起動については、大飯同様に引き続き丁寧に個別に安全性を判断してまいります

国民生活を守ることの第二の意味、それは計画停電や電力料金の大幅な高騰といった日常生活への悪影響をできるだけ避けるということであります。豊かで人間らしい暮らしを送るために、安価で安定した電気の存在は欠かせません。これまで、全体の約3割の電力供給を担ってきた原子力発電を今、止めてしまっては、あるいは止めたままであっては、日本の社会は立ちゆきません。

数%程度の節電であれば、みんなの努力で何とかできるかも知れません。しかし、関西での15%もの需給ギャップは、昨年の東日本でも体験しなかった水準であり、現実的にはきわめて厳しいハードルだと思います。

仮に計画停電を余儀なくされ、突発的な停電が起これば、命の危険にさらされる人も出ます。仕事が成り立たなくなってしまう人もいます。働く場がなくなってしまう人もいます。東日本の方々は震災直後の日々を鮮明に覚えておられると思います。計画停電がなされ得るという事態になれば、それが実際に行われるか否かにかかわらず、日常生活や経済活動は大きく混乱をしてしまいます。

そうした事態を回避するために最善を尽くさなければなりません。夏場の短期的な電力需要の問題だけではありません。化石燃料への依存を増やして、電力価格が高騰すれば、ぎりぎりの経営を行っている小売店や中小企業、そして家庭にも影響が及びます。空洞化を加速して雇用の場が失われてしまいますそのため、夏場限定の再稼働では、国民の生活は守れません。

そして、私たちは大都市における豊かで人間らしい暮らしを電力供給地に頼って実現をしてまいりました。関西を支えてきたのが福井県であり、おおい町であります。これらの立地自治体はこれまで40年以上にわたり原子力発電と向き合い、電力消費地に電力の供給を続けてこられました。私たちは立地自治体への敬意と感謝の念を新たにしなければなりません。

以上を申し上げた上で、私の考えを総括的に申し上げたいと思います。国民の生活を守るために、大飯発電所3m4号機を再起動すべきだというのが私の判断であります。その上で、特に立地自治体のご理解を改めてお願いを申し上げたいと思います。ご理解をいただいたところで再起動のプロセスを進めてまいりたいと思います。

福島で避難を余儀なくされている皆さん、福島に生きる子どもたち。そして、不安を感じる母親の皆さん。東電福島原発の事故の記憶が残る中で、多くの皆さんが原発の再起動に複雑な気持ちを持たれていることは、よく、よく理解できます。しかし、私は国政を預かるものとして、人々の日常の暮らしを守るという責務を放棄することはできません。

一方、直面している現実の再起動の問題とは別に、3月11日の原発事故を受け、政権として、中長期のエネルギー政策について、原発への依存度を可能な限り減らす方向で検討を行ってまいりました。この間、再生エネルギーの拡大や省エネの普及にも全力を挙げてまいりました。

これは国の行く末を左右する大きな課題であります。社会の安全・安心の確保、エネルギー安全保障、産業や雇用への影響、地球温暖化問題への対応、経済成長の促進といった視点を持って、政府として選択肢を示し、国民の皆さまとの議論の中で、8月をめどに決めていきたいと考えております。国論を二分している状況で一つの結論を出す。これはまさに私の責任であります。

再起動させないことによって、生活の安心が脅かされることがあってはならないと思います。国民の生活を守るための今回の判断に、何とぞご理解をいただきますようにお願いを申し上げます。

また、原子力に関する安全性を確保し、それを更に高めてゆく努力をどこまでも不断に追求していくことは、重ねてお約束を申し上げたいと思います。

私からは以上でございます。



お読み頂いて、どういう感想を持たれただろう。

なんとなく「狐につままれた」ような、言いくるめられたような、気持ちの片づかない思いをした人が多かったのではないかと思う。

それも当然である。

この所信表明は「詭弁」の見本のようなものだからである。

詭弁にはさまざまなテクニックがあるが、そのもっとも基礎的な術の一つに「同一語を二つの意味で使う」という手がある。

二つの意味のうち、それぞれ一方についてしか成立しない命題を並べて、あたかも二つの命題が同時に並立可能であるかのように偽装するのである。

この演説で同一語を二つの違う意味で用いているのは、キーワードである「国民生活」である。

この語は前半と後半でまったく違う、そもそも両立しがたい意味において用いられている。

前半における「国民生活」は「原子力発電所で再び事故が起きた場合の被災者の生活」のことを指している。

首相はこう述べている。

「国民生活を守ることの第一の意味は、次代を担う子どもたちのためにも、福島のような事故は決して起こさないということであります。」

「何から」国民生活を守るのかは、この文からは誤解の余地がない。

原発事故の及ぼす破壊的影響から守る。

たしかに首相はそう言っている(のだと思う)。

だが、それは私たちの読み違いであることがわかる。

首相はこう続けているからである。

「福島を襲ったような地震・津波が起こっても事故を防止できる対策と体制は整っています。これまでに得られた知見を最大限に生かし、もし万が一すべての電源が失われるような事態においても、炉心損傷に至らないことが確認されています。」

注意して読んで欲しいのだが、首相はここでは福島原発を襲ったのと「同じ」震度の地震と「同じ」高さの波が来ても大丈夫、と言っているだけなのである。

だが、福島原発「以上」の震度の地震や、それ「以上」高い津波や、それ「以外」の天変地異やシステムの異常や不慮の出来事(テロや飛来物の落下など)を「防止できる対策と体制」についてはひとことも言及していない。

そのようなものはすべて「想定外」であり、それについてまで「安全を保証した覚えはない」とあとから言われても、私たちは一言もないように書かれている。

次の文章も官僚的作文のみごとな典型である。

「これまで一年以上の時間をかけ、IAEAや原子力安全委員会を含め、専門家による40回以上にわたる公開の議論を通じて得られた知見を慎重には慎重を重ねて積み上げ、安全性を確認した結果であります。」

これは原発の安全性が確認されるというこの所信表明の「きかせどころ」なのだが、何とこの文には主語がないのである。

いったい「誰」が安全性を確認したのか?

うっかり読むと、これは「IAEAや原子力安全委員会」が主語だと思って読んでしまうだろうが、たしかに不注意な読者にはそのように読めるが、実は安全性を確認した主語は存在しないのである。

意味がわからなくなるように周到に作文されているのである。

これを英語やフランス語に訳せと言われたら、訳せる人がいるだろうか。

私がフランス語訳を命じられたら、「安全性を確認した」のところはたぶんこう書くだろう。

La sécurité s’est confirmée

これは代名動詞の受動的用法と呼ばれるもので、「安全性」というものが自存しており、それが自らを確認したというニュアンスを表わす。

つまり、人間は誰もこの確認に関与していないということである。

La porte s’est fermée は「扉が閉まった」と訳す。

「誰も扉を閉めていないのに、扉が勝手に閉まった」という事情を言う場合に使う。

たぶん、それと同じ用法なのである。

だから、仮にその後何かのかたちで「安全ではなかった」ことがわかったとしても、文法的には、その責任は勝手におのれを「確認」した「安全性」に帰せられるほかない。

だが、そうやって「安全性を確認」した主体を曖昧にしただけでは不安だったのか、ご丁寧に、そのあとには「結果であります」ともう一重予防線を張って、さらに文意を曖昧にしている。

もう一度この文を読んで欲しい。

「これまで一年以上の時間をかけ、IAEAや原子力安全委員会を含め、専門家による40回以上にわたる公開の議論を通じて得られた知見を慎重には慎重を重ねて積み上げ、安全性を確認した結果であります。」

「安全性を確認した結果」とは何を指すのか。

「安全性を確認した結果」は実はこの文の前にも後にも言及されていない。

それが出てくるのは、はるか後、演説の終わる直前である。

「大飯発電所3、4号機を再起動すべきだというのが私の判断であります。」

これが「結果」である。

たぶんそうだと思う。

「安全性を確認した結果」として意味的につながる言葉は声明の中に、これしかないからである。

だが、この書き方はいくらなんでも、声明の宛て先である国民に対して不誠実ではないだろうか。

「これまで一年以上の時間をかけ、IAEAや原子力安全委員会を含め、専門家による40回以上にわたる公開の議論を通じて得られた知見を慎重には慎重を重ねて積み上げ、安全性を確認した結果、大飯発電所3、4号機を再起動すべきだというのが私の判断であります」と堂々と書けばよろしいではないか。

なぜ、そう書かないのか。

推察するに、そう書いてしまうと、IAEAや原子力安全委員会を含めるすべての専門家が全員「安全だ」言ったので、それを根拠に首相は再起動の政治決断をした、というふうに読めてしまうからである。

実際には、専門家からは大飯原発の安全性についてはさまざまな疑念と否定的見解が提出されていた。IAEAも特定の原発について、「絶対安全です」という技術的な保証を与えることを任とする機関ではない。

だから、そうは書けない。

やむなく、「専門家の議論」と「私の判断」の間に数十行の「ラグ」を挿入して、この二つの間に関連性が「あるような、ないような」不思議な文を作ったのである。

議論には参加したが、安全性を確認していない専門家に対してはみなさんがなさった議論と私の政治判断の間に「関連がある」とはひとことも書いていないという言い訳ができる。

でも、素人が読めば、議論の「結果」、あたかも科学的推論に従って、首相は粛々とこの判断に至ったかのように読める。

よくこんな手の込んだ作文をするものである。



だが、詭弁が冴えるのはむしろこの後である。

「国民生活の第二の意味」についての部分である。

さきほど見たように、「国民生活の第一の意味」は原発事故という「非日常的なリスク」から守られるべき生活のことである。

このリスクは「安全性が確認された」のでクリアーされた、というのが首相の言い分である。

第二の意味は平たく言えば、「日々の生活」のことである。

「計画停電を余儀なくされ、突発的な停電が起これば、命の危険にさらされる人も出ます。仕事が成り立たなくなってしまう人もいます。働く場がなくなってしまう人もいます。」

だから、原発再稼働というロジックはみなさんご案内の通りである。

原発事故や天変地異は「いつ、どこを、どのような規模の災禍が襲うか予測できないリスク」である。

電力高騰と停電は「いつ、どこで、どのような規模の災禍が襲うか予測可能なリスク」である。

盛夏期の午後(高い確率で甲子園の決勝の日)に、関電が送電している地域で、計画的な(場合によっては、突発的な)停電があるかも知れない。

たしかにそうだろう。

だが、そのような事態や電力料金の値上げは、原発事故とは「リスク」として比較を絶している。

原発事故は「長期的な、被害規模が予測できないリスク」である。

原発停止がもたらす電力不足や電気料金の高騰は「短期的な、被害規模が予測可能なリスク」である。

再稼働反対の人たちは「長期的なリスク」を重く見る。

賛成派は「短期的なリスク」を重く見る。

その射程の違いが賛否をわけているということは、これまでに何度も書いてきた。

野田首相は「長期的なリスク」を低く見積もり、「短期的なリスク」を高く見積もった。

それは彼の個人的判断であり、一般性は要求できないが、ひとつの見識である。

だが、それなら「原発事故が起きる蓋然性は低い。だから、それよりは確実に被害をもたらす短期的なリスクを優先的に手当てすべきだ」と率直に言えばよかったのである。

「原発事故が起きた場合に損なわれる(かもしれない)国民生活より、電力高騰と電力不足によって(確実に)損なわれる国民生活の方を私は優先的に配慮したい」とはっきり言えばよかったのである。

首相が不実なのは、そのことを言わなかった点にある。

彼は「原発事故が起きた場合に損なわれる蓋然性のある国民生活」については、これを今は配慮しないという政治決断を下した。(「安全性が確認された」のである。どうして事故を気づかう必要があろう)。

繰り返し言うように、そのような判断は「あり」である。

「朝三暮四」と侮られようと、この夏が乗り切れなければ、「日本は終わりだ」と彼がほんとうに信じているなら、そう考える自由は彼のものである。

だが、「原発事故から国民生活を守る」という仕事を「原発の安全性について(誰ひとりその責任をとる気のない)『確認』を行ったこと」に矮小化して、あたかも「原発事故から国民を守っている」かのように偽装することは一国の統治者には倫理的に許されない。

「原発事故から国民を守る」というのは、原理的には稼働停止・段階的廃炉以外の選択肢はない。

仮に暫定的な再稼働が経済的理由で不可避であるというのなら、「原発事故から国民生活を守る」ためにまずなすべきは、原発隣接地域における汚染被害を最小限に食い止めるための「最悪の事態に備えた避難計画」の立案と周知であろう。

それを再稼働よりも「後回し」にできる理由として、私には「原発事故から国民生活を守る仕事には緊急性がない」と彼が思っているという以外のものを思いつかないのである。



長くなるのでもう止めるけれど、昨日と同じことを今日も書く。

困っているなら、「困っています」と素直に言えばいい。

二つの選択肢の間で、決断しかねている。

こちらを立てればあちらが立たずという苦境にいるのだが、とにかく目先のリスクを回避するのが優先すると、私は腹をくくった。

原発事故がもう一度起きたら、そのとき日本は終わりだが、それは起きないと「祈りたい」。

「原発事故から国民生活を守る」という「国として果たさなければならない最大の責務」については、これを暫時放棄させて頂く、と。

そう正直に言ってくれたらよかったのである。

そう言ってくれたら、私は彼の「祈り」にともに加わったかも知れない。

だが、彼は正直に苦境を語るという方法をとらずに、詭弁を弄して、国民を欺こうとした。

政治家が不実な人間であることを悲しむほど私はもうナイーブではない。

だが、総理大臣が自国民を「詭弁を以て欺く」べき相手、つまり潜在的な「敵」とみなしたことには心が痛むのである。





・~・~・~・~・~



















 

0 件のコメント :

コメントを投稿