交響を生きる


朝起きて、気が向くとピアノに向かう。

二十世紀最大のチェリストと云われるパブロ・カザルスがその自著の中で、毎朝必ず二曲のバッハを弾くことから一日を始めると言っていた。
なんとなくそれに倣って始めた習慣だった。

見様見まねで始めたピアノも、なんとなく自分のスタイルができてきた。
基本的には即興しか出来ない。だから同じ曲は二度弾けない。

それでいいと思う。音楽は瞬間の芸術だから。
再現できるものは生命ではない。
同じものである必要がない。

それは命の営みと同じことだと思う。
毎朝は同じではない。
ある日の光や風や湿度や、そこに流れている穏やかなあらゆるものが、その一瞬の朝を彩っている。
そこに私がただ参加する。その一部として在ることを自分にゆるす。
これはセッションなんだと思う。

そこに参加しようと思ったのは私の意志。
しかしそこに生まれたものは、交じり合い、響き合うことでしか生まれないもっと美しい何かに繋がっている。

何かをしようとする、思考を手放したときにだけ生まれる調和がある。
多分私たちはそれがやってくる場所を知っている。
私たちが選べるのはきっと、ただ参加することだけだ。

それは波乗りに似ている気がする。
波に乗るために海に入った者だけが、波と交われる。
波の上に立つ者は、変わり続ける波と同じ呼吸を踊っている。
何かであろうとすることを手放した者だけが、変わり続ける自然の波の中で交わり響き合うことができる。
多分それが自然体を生きるということだと思う。

島で暮らすようになって、そういうものへの理解の解像度が上がってきた感覚がある。
すべてのことを、交わり響き合うために生きたら何が生まれるのだろう。

時として人と響き合うのがとても困難なのだとしても、自身に対して解像度の高い鏡で在り続けよう。
映るものに惑わされないように、ただ観ていることが出来るなら、きっと人と波のように踊れるのかもしれない。




 

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